2014年1月20日月曜日

<31-2>いよいよ最終章?!赤松支流大塚氏のルーツはここだ?!

 というわけで、長々と調査してきた我ら久留米藩士「大塚氏」の源流だが、いよいよ最終章を迎えそうな予感がしている。

 室町時代、大塚重太夫の構居であったと思われる「岩崎構」は、書写山円教寺のふもとに位置する姫路市打越にある。


 現在は、姫路随一の「謎のテーマパーク・太陽公園」のすぐ近くなのだが、お暇な方はぜひ太陽公園へお出かけいただきたい。


 太陽公園さんのサイトより

 http://www.taiyo-park.com/


 もう、ドキドキわくわく間違い無しのパラダイスである。



 太陽公園はさておき、大塚重太夫が住んだこの地には、やはり「大塚古墳」が存在することが判明した。

 
 そもそも、大塚重太夫とケンカしていた本庄氏の構居である、現天神神社のある香山構も、古墳の山をベースにしているように思われる。この当たり一帯は、古墳がたくさん存在しているのだが、「大塚」と名の付く古墳ももちろんある。


大和国古墳墓取調室 さんのサイトより

http://obito1.web.fc2.com/himezinisi.html


 上記サイトで紹介してくださっている古墳のうち、

「刀出天神古墳」が香山構跡であり、「伯母池大塚古墳」(伯母山1号墳)が、打越地域の古墳のうち「大塚」らしいものである。


古墳のお部屋ブログ館 さんのサイトにも訪問記あり。

http://kofunoheya.blog.fc2.com/blog-entry-1651.html



 グーグルマップで「姫路市打越」と検索すればわかるが、現在でも、打越地区は、峰相小学校をはさんで南北に広がる地域になっている。

 もちろん、「岩崎構」も、「伯母池」もおなじ地域に当たる。


 ちなみに、打越伯母池あたりの道をはさんで東隣からは「六角」という地名になるのだが、ここに伝わる伝承も興味深い。

 
黄門ちゃま漫遊記 さんのブログより

http://blogs.yahoo.co.jp/hotsumairu2003/32090893.html


 上記記事によると、山名と赤松の播磨争いの際に、「本城義俊」が書写山に逃れて、山名が去ってから山を降りて付近に村を開いたらしい。

 この本城(赤松)義俊の子が権頭源六角為持といい、六角村の起源となったというのだが、「本城」とは「本庄」氏と同一であろうから、話は合っている。


 つまり、打越地域に対して、その東側は北部から南部まで「本庄氏」の所領であり、そのラインが赤松支配下にあったことは、これまでの話・調査と合致するのである。


(どうやら刀出・六角などの地区はそもそもは書写山円教寺領であったらしい)



 さて、打越地域は、古くは播磨国揖東郡打越村であり、江戸期は龍野藩に属している。


 ところが、刀出地区などの東側は、古くは播磨国飾磨郡菅生澗村となり、姫路藩領に当たるのだ。


 こうなると俄然面白い。この地が村と村の境だけでなく、古代から郡と郡の境界だったとすると、大塚氏と本庄氏の対立は、「何者かVS赤松」の図式だったと見ることもできる。

 つまり、大塚重太夫本人、あるいはその子孫は、最終的には、赤松側に下るのだけれども(取り込まれてゆく)、当初は赤松側(置塩城主側)ではなかった可能性が出てくるのである。


 しかし、これ以上はなかなかつっこめそうにない。赤松氏は室町時代初期には播磨国の守護になっているから、一応付近一帯は「赤松」の息がかかっているはずである。大塚氏が、何者かの残党だったのかどうかもわからない。


 仮説で考えてみる。


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 置塩城は1469年に赤松政則によって築城され、そこから5代続いて1580年に廃城となる。ところが、政則は、その直前まで加賀国にいたので、このあたり一帯は「山名氏」によって支配されていた。

 政則の置塩城築城は、没落していた赤松再興と同時に、山名宗全をはじめとするVS「山名軍」の布陣であるとも言える。



 山名氏から見ると、1441年の将軍義政殺人事件(犯人は赤松)により、赤松討伐の総大将を勤めたゆえに、播磨守護職をゲットしている。

 ところが、ぐちゃぐちゃして1467年に応仁の乱勃発。1473年に宗全は死去することになる。

 そうして播磨は再び赤松に奪われ、1488年には撤退することになる。


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 こうしてみると、大塚氏が赤松家臣本庄氏と1470年頃~1490年頃に対立していたとすれば、大塚氏の出自はこの時点だけを見ると山名家臣ということになる。

(なぜこうした言い回しをするかといえば、山名の播磨支配は一時的であるため、もともと大塚氏が赤松家臣であったものの、赤松没落により山名支配下にあった可能性があるためである)


 だが、もう一つ気になる点があり、実は応仁の乱では1467年から1468年にかけて、赤松本体ではなく家臣の「宇野政秀」に命じて播磨奪還作戦を決行している、ということである。

 宇野政秀は、「赤松政秀」とも呼ばれるが、そのルーツがよくわからない人物でもある。ようするに赤松本流ではなく、家臣筋の養子なのだ。


 宇野政秀の播磨統治期間は以下の通りである。

1467~1483 第一次播磨奪還に成功。

1483~     山名とやりあう「福岡合戦」、のち赤松同士で内紛「東西取合合戦」

1499      龍野城築城 政秀の孫「赤松政秀(おなじ名前でややこしい)」が龍野城を作る。
 
1506~1577 龍野赤松氏4代続く。秀吉の中国攻めに斎村(赤松)政広が降伏。

(ちなみに1558~1570の永禄年間に大塚将監が岩崎構に住む)



 今度は、1490~1558までを考えると、大塚氏は当初龍野赤松氏の支配下にあり、そこから離れていったと考えることができる。


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 とにかく、このあたりの経緯はややこしいのである。同じ赤松一族同士でケンカしたり、あっちへついたりこっちへついたり、赤松本流を誰が取るかでもめたりしているので、本当にわけがわからない。

 可能性は低いが、大塚氏は山名氏にくっついてきたことも考えられるし、そうではなく、元からの赤松系だとも考えられる。

 ただ、赤松大系図において、大塚重太夫の表現が微妙なのは、個人的には地勢から考えて「当時、重太夫はどうも龍野赤松系に属していたのではないか?」という雰囲気を感じる。

 その後、大塚氏は「小寺家臣」として登場したり、「有馬家臣」として登場したりしたことを考えると、戦国の世のことであるから、やむなくいろいろな形で赤松一族の「どこか」にくっついていたように思うのである。

 そのあたりのポジションを総括すると、「やっぱり赤松一族の隅っこの氏族」としか言いようがないのだが、いや、現代まで僕が生きているのならそれもそれでいいのだ。

 ご先祖様戦国の世を生き抜いてくれてありがとう!






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