2014年1月27日月曜日

<32-1>振りだしに戻る大発見か?!謎が謎を呼ぶ播磨「大塚将監」の正体!

 なんということでしょう!

 先日、ある程度メドがついたと思われる「播磨の赤松家臣、大塚氏」のルーツについての調査であったが、ここへきて振り出しに戻るような発見があったので、慌てふためいているところである。

 一体、何を見つけてしまったというのか。それは、姫路の上野構に住んでいたとされる赤松氏の家臣、「大塚将監」の正体である。

 やばい!これはヤバすぎる大発見かもしれない。


・・・・・・というのも、僕は残念ながら歴史の専門家ではなく、どちらかといえば文学の専門家なので、(あはは)、詳しい人が見れば当ブログの内容をみて

 ここが間違ってるよ

とか

 ここがおかしい!

とかいっぱい突っ込まれても仕方がないのだが、ああ、人に指摘されるよりも自分で気付いてしまったときの恥ずかしさよ!

(これまでの記事の多くを消し去りたいが、とりあえず残しておくことにする)


 いや、しかし。崩れ落ちそうな膝を立て起こして、頑張ってその事件を追っていくことにしよう。


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 もういちど、経緯をまとめておく。久留米藩士であった我が大塚一族の家紋が「抱き茗荷」であり、「寛政重修諸家譜」記載の抱き茗荷紋大塚氏が「村上源氏赤松支流」とのことだったので、その文言をもとに播磨の赤松氏を追っていったのが、このブログのこれまでの記事である。


 そして、赤松氏と大塚氏の接点が2つ発見され、ひとつは姫路市の「上野構」の「永禄年間」の城主が「赤松氏の家臣の大塚将監」だったことがわかり、もうひとつはこれまた姫路市の「岩崎構」の「室町時代」の城主が「大塚重太夫」だったことがわかったのであった。


 これで、赤松-大塚ラインが存在することがわかり、特にわが家系については、赤松氏の子孫であった有馬氏経由で、久留米藩へ入ったという「点と線が繋がった」ので、ざっくりとルーツが判明した、というところまでは既にお伝えしている。


 この時、おなじ赤松一門の小寺氏経由で、今をときめく「黒田官兵衛」の家臣として大塚氏が存在し、この流れで福岡藩に大塚一族が根付いたという可能性も示してきた。


しかし、こうした推理が、ある程度どんぶり返りそうな勢いで、新発見をしてしまったわけである。

 
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 物語は、久留米藩経由ではなく、黒田福岡藩経由ではじまる。

 黒田官兵衛には、「後藤又兵衛」なる有名な部下がいる。この後藤基次は、後藤基国という「別所氏家臣で、のちに小寺氏に仕えた」おっさんの次男として生まれ、官兵衛に仕えたり、のちに黒田家を出奔して浪人になり、豊臣家に仕えたりして、最終的には大阪夏の陣がらみで戦死することになる。

 後藤氏は、藤原利仁の子孫である(利仁流)。いろいろあって、姫路・福崎町の春日山城に拠点を持っていたが、のちに勢力を拡大した赤松氏と協調関係でやっていかざるを得ないようになり、戦国時代には前述したように、赤松系の緒家と関係しながら細々と命脈を繋いでいた。

 この後藤氏から大塚氏が出たことは、すでに

「全大塚氏族超まとめスペシャル」
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html

の<AI>後藤氏(大塚) 藤原氏利仁流 家紋不明 として掲載しているのだが、詳しいことはわからないままだった。

 
 さて、ここで発見したのが、次のサイトの記述だ。

 播磨黒田氏 黒田官兵衛 さんのサイトより
 http://www.geocities.jp/kurodazensi/361.html


 ここでは黒田家の前史について研究なさっているのだが、ここに「後藤基国」の系図が載っていて、基国の長男「基」が、上野蟄居後、大塚を名乗ったということが書いてある。

 ん?と僕はここでかなりひっかかった。というかピンと来た。

 上野、大塚・・・。そうだ。これは怪しいのだ。


 同じページに、又兵衛の父、基国のことはよくわからん人物だと説明されているのだが、なんと、彼は他のサイトを調べると

 後藤新左衛門、後藤将監、後藤将監基国

と呼ばれているのだ、


 戦国武将列伝 さんのサイトより
http://senjp.com/goto-2/


 他にも、多数このことを書いているサイトはある。

 ちなみに、又兵衛が生まれたとされる1560年はまさに年号でいえば「永禄」である。時代も符合する。


 つまり、これまで僕が追いかけていた大塚将監とは、後藤又兵衛の親父もしくは、その跡を継いだかもしれない又兵衛の兄貴、の可能性がめちゃくちゃ高いのである。



 となると、少なくとも福岡藩の大塚氏は、こちらの系統の可能性もある。播磨後藤氏の家紋は「下がり藤」であり、福岡藩系列の大塚さんの家紋が「下がり藤」ならドンピシャだ。

 あるいは、もっとすごいことを考えるのだが、赤松支流大塚氏とは、「播磨後藤氏」の姿を変えた一族、という大胆仮説もありうる。

(もっとも、その場合は、大塚重太夫との整合性がずれてくるので、赤松家臣の大塚氏は

①大塚重太夫系の古い大塚氏

②大塚将監系の新しい大塚氏

の2種類が存在することになるのか?!)


 そして、この話が確定してくると、これまで赤松系大塚氏について挙げてきた「4つのグループ」そのものがさらに広がってくるのである。

①久留米藩に残る大塚氏 系統【1】赤松支流大塚氏 抱き茗荷

②福岡藩に残る大塚氏 系統【2】赤松系大塚氏(もと後藤氏 家紋不明(下り藤?))あるいは、福岡藩にも【1】がいるのか?

③播磨に残る大塚氏は、【1】なのか【2】なのか、それとも両方か?

④その他の地域に残る大塚氏は 【1】なのか【2】なのか?!


 これは、なかなかすごいことになってきた!


とにかく、福岡県の大塚さん、家紋を教えてくださいませ!!


(特に、黒田藩の家臣だった方、プリーズ)


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