2014年1月18日土曜日

<30-2> 幕臣大塚氏と「第三の男」 そして、『バンサンケツマ!』

 あの国民的ドラマTRICKが、いよいよ最終回を迎えるということで、早く映画が見たくて仕方ない。

 「大塚のルーツは、まるっとごりっとさらっとお見通しだ!」

と人差し指を突き立てたいものだが、なかなかそこまで行かずにもがいている。


 しかし、アホな冗談を言っているわけではない。寛政譜に登場する謎の「抱き茗荷紋の幕臣大塚氏」と、「バンサンケツマ」は、意外なトリックで繋がっている。



 そう、これから述べるのは、上田次郎バリに怪しげで突拍子もない、名推理(仮説)である!



 ★「バンサンケツマ」は、『劇場版TRICK 霊能力者バトルロイヤル』のネタである。ご参考まで★



まず、寛政譜の抱き茗荷「大塚氏」の項を引用しておく。


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大塚

盛美(もりよし) 庄三郎 

 明和八年御徒にめし加えられ、のち御作事下奉行となり、拝謁をゆるされ、其後御天守番にうつる。



盛定(もりさだ) 亀之進 母は中山氏の女

 寛政六年十月六日遺跡を継、のち御徒目付をつとめ、八年三月十七日班をすすめられて町奉行支配の留役となる。

 時に三十九歳 四月二十九日役名を町奉行吟味物調役とあらためらる。妻は榊原七郎右衛門長次が女。

盛服(もりのり) 安之助

女子



某 亀三郎 母は長次が女


家紋 抱蓑荷 丸に釘抜 丸に澤瀉


(補足説明)  盛美 - 盛定 - 某 が直系。 盛定と盛服と女子がきょうだい。


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 まず、明和8年とは1771年のことで、将軍は10代徳川家治の頃である。

 家治は、8代将軍マツケンサンバこと徳川吉宗暴れん坊将軍(松平健)に一番愛された孫であり、父親(つまり、吉宗の子、9代将軍徳川家重)に言語障害があったため、早くからのちの跡継ぎとして帝王学を叩き込まれている。


 では、なぜこの将軍家治と大塚盛美が出会うことになるのか?


 大塚盛美は、寛政譜に突然登場し、そして3代であっさり消えていく。それだけ、たいしたことのない家臣で終わってしまうのではあるが、それでもそれなりの功績・能力があったからこそ盛美は幕臣に取り立てられたのであろうと推測できる。

 いくらなんでも、将軍家の家臣であるから、

「そこらへんを歩いていて召抱えられた」とか「浪人だったけど雇われた」とか、そんな理由であるはずはない。


『作事下奉行』で100俵高10人扶持ぐらい、『拝謁をゆるされ、御天守番』で100俵高5人扶持ぐらいなので、まあ、だいたいのランクが想像できるのだが、石高に換算して100石くらいに当たる。

息子の代の『徒目付』で、100俵5人扶持、『町奉行吟味物調役』・(旧名)評定所留役は150表クラスなので150石程度、いずれにしても幕府で言えば、「下級武士だが、まあその中では上のほう」ぐらいの位置づけになる。

ちなみに、必殺仕事人「中村主水」(藤田まこと)が30俵2人扶持であるから、ご参考まで。


 話を元に戻そう。いくら下級武士とはいえ、そこらへんで拾われたのとは訳が違うので、「故あって、徳川家・将軍家に取り立てられた」と見るのが筋であり、逆に言えば、それまでは誰かに仕えていた、つまり、徳川家の幕臣の誰かの「家臣」であったと考えられないか。



 さて、大塚盛美と徳川家、この点と点をつなぐ「線」として一人の男の存在が浮かび上がる。その男の名は、「有馬頼次」、そう、またしても「有馬氏」なのである。

 有馬頼次は、久留米有馬藩豊氏の三男であり、分家して駿府徳川家・徳川忠長に仕えることになる。ところが、忠長はいろいろあって改易され、頼次は、また父の豊氏に預けられたりするのだが、39歳で亡くなってしまう。


★ちなみに、この忠長の息子が「長七郎江戸日記」の松平長七郎(里見浩太朗)なのである。ババーン!★


 そこで、養子の有馬吉政が跡を継ぐのだが、彼は紀州徳川家(吉宗の祖父・頼宣)に仕えるのである。

 こうして紀州徳川家と繋がった有馬氏は、孫の有馬氏倫(暴れん坊将軍では有馬彦右衛門・名古屋章)の時、吉宗の側近となり、伊勢西条藩初代藩主となった。この家系を「氏倫系有馬氏」という。

 
 
 推理はこうだ。久留米有馬藩と、紀州徳川藩は、上記の縁で非常に近い関係にある。これが点をつなぐ線に違いない。

 だとすれば、有馬頼次が徳川家に仕えるに当たって、一緒についていった家臣に「赤松支流大塚氏」がいても全く不思議ではない。そもそも、有馬と大塚はおなじ赤松一族であり、近い位置にある。

 この有馬氏に従っている大塚氏は、氏倫の代に紀州徳川家と接点ができ、吉宗が将軍になった時点で、江戸幕府本体との接点も出来ることになる。

 つまり、大塚盛美は、紀州徳川本家の家臣というよりも、もとは有馬家家臣であり、あるいは伊勢西条藩がらみの人物であったかもしれない。

 だからこそ、徳川幕府が、紀州徳川家に移って以降の10代家治の代に、直接徳川家の家臣に取り立てられたのではなかろうか。


 だから、抱き茗荷の大塚氏が幕臣になれたわけであり、寛政譜に記録が残った、というわけだ。


 状況証拠は、揃った。久留米藩ルート、福岡藩ルート、そして第三の紀州徳川藩ルートが、こうして発見されたと言っていいだろう。


 だが、もう一つだけ、怪しい・疑問・気になる点が残っているのだ。


(つづく)










 

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