2014年1月20日月曜日

<30-3>暴れん坊吉宗と大塚氏 ~紀州系大塚氏は二人いる?!~

 寛政譜に残された抱き茗荷紋の赤松支流「大塚氏」が、紀州徳川吉宗に仕えた有馬氏倫つながりなのではないか、という大胆仮説が登場したところで、前回は筆を置いた。

 しかし、寛政譜において抱き茗荷の大塚氏は「御徒に召し加えられ」としか記述されていないため、そこに至る経緯が実は全くわからないのも、事実なのである。

 そのため、誰も何にも言ってないのに、僕の勝手な推論で「有馬氏倫」ルートを仮定したのだが、調査しているうちに、ものすごく気になることを発見してしまったのである。


 まずは、何を見つけてしまったのか、その事実だけを提示したい。


 もういちど、寛政譜に立ち戻ってみる。

 寛政譜に収録されている「大塚氏」は4家であり、それぞれ

1「宇多源氏 佐々木庶流」
2「村上源氏 赤松支流」
3「未勘源氏」
4「藤原氏 山蔭流」

となっている。そこで、「2」は前回掲載したのでほっておくとして、それ以外の記述を読んでみると以下のようになっている。

★数字は便宜的に僕がつけている。かな表記・漢字表記も読みやすいように多少改めている。

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1)宇多源氏 佐々木庶流

 大塚

 重時 清六郎 神田の館において小十人をつとむ。延宝8年徳松殿西城にいらせたもうのとき、従いたてまつり御家人に列す。


<略>

 大塚

 友昌 弥門 はじめ紀伊家に仕え、享保元年有徳院殿本城にいらせたもうのとき、従いたてまつり、御家人に列し、(以下略)



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3)未勘源氏

 大塚

 某 茂右衛門 御鷹方をつとむ。

 光広 太左衛門 神田の館において右筆をつとむ。延宝8年徳松殿西城にいらせたもうのとき、従いたてまつり、御家人に列し(以下略)



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4)藤原氏 山蔭流 

 大塚 家伝に大曾禰次郎兵衛時永が後胤にして、のち大塚を称すという。

 信光 太右衛門 神田の館に仕え、延宝8年御家人に列し、三丸の御墓所人をつとむ。


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 まず、よく出てくる延宝8年というのは、5代将軍綱吉が将軍になった時であり、徳松殿というのは、綱吉の息子のことだが、彼は5歳で死んでいる。

 神田の館とは、綱吉が住んでいた家のことで、西城は江戸城西御丸のことと思われる。

 
 つまり、1の友昌以外の「大塚氏」は、5代将軍綱吉の家来もしくは、その息子徳松の家来だったということがわかる。そもそも、徳松も父が将軍になったため2歳で父の代わりになり、5歳で死んでいるので、実質的にはこれらの大塚氏は綱吉の支配下にあったと考えてよい。


 そして、それらの系統とは別に、「大塚友昌」だけが、もともと紀州徳川家に仕えていた宇多源氏佐々木庶流大塚氏であり、彼は有徳院つまり徳川吉宗にくっついて江戸へ来た、ということになる。


 こうして見ると、やはり赤松支流大塚氏の大塚盛美だけが、幕臣となった経緯がわからない唯一の人物ということになるわけである。

 
 これをどのように解釈すればいいのか、実はよくわからない。

 前回の仮説のように、盛美は紀州徳川の家来というよりは、氏倫系有馬氏の家来だったために一段階扱いが低かったから、徳川氏との関係において記載がない、と解釈してよいのか、あるいは、やっぱり、盛美だけは、全然違うルートで幕臣に取り立てられたのか・・・。


 この謎を誰か解いてほしい。じっちゃんの名にかけて!








 

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