2014年1月17日金曜日

<30-1>【第四グループ】をめぐる点と線 幕臣「大塚氏」はどこから来たのか?!

 抱き茗荷紋の大塚氏の流れについて、新たな仮説が浮上したので、ここで取り上げたい。

 
そもそも、赤松系大塚氏の4グループについて見ていったときに、

 ① 播磨に残った赤松支流大塚氏

 ② 有馬氏に従って久留米藩に移動した大塚氏

 ③ 小寺家臣を経て、黒田氏に従い福岡藩に移動した大塚氏

 ④ その他

という分類を提示した訳だが、この「その他」の流れをもう少し突っ込んでみたいわけである。


 原点に戻ろう。


 我が大塚家のルーツ探しにおいて、大きなポイントとなった「寛政重修諸家譜」であるが、ここに「抱き茗荷」紋の大塚氏がいる、という発見が基本的にはこのブログのテーマそのものなのである。

 しかし、考えてみたら、「寛政ほにゃらら~(以下寛政譜)」に載っている大塚さんは、②や③ではないのである。

 「幕臣」大塚氏として記載されているのであるから、有馬家臣でも黒田家臣でもなく、あえて言おう。

 徳川家臣の大塚氏

というわけなのだ。


 そもそも、寛政譜の出来た経緯というのは、簡単に言えば幕府が徳川に従う者たち(大名・幕臣など諸家)に

「おまえんとこのルーツを書いて、提出しなさい」

という命令を出して、各家が

「はい、うちはこうですねん。こういう由来やいわれがあるそうですねん」

という回答を上奏した結果なのだ。当然、それが史実かどうか検証する客観的手段はないのだから、徳川幕府とすれば

「・・・って言ってるから、そうらしいわ。とりあえず、そう書いておこう」

という扱いをする以外にないわけである。



 まどこっろしいが、何を言いたいのかといえば、こういうことだ。

 とある幕臣の大塚氏がいて、「おまえのルーツはなんだ?」と尋ねられて、「うちは赤松家の支流の大塚だと聞いてます」と答えた、それが寛政譜の記載になるわけである。

(↑ざっくりといえば、であるが)


 では、その大塚氏は、どこから徳川に仕えることになったのか。基本的には①か④であり、播磨は特段徳川氏と直接関係があるとは思えないので、④の可能性を探るべし、ということになりはしないか?

 点と線をつなぐ作業が必要になりそうである。


「この大塚氏は、いったいどこから江戸に来たのか?!」


これが、この章のテーマである。


(つづく)

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