抱き茗荷紋の大塚氏の流れについて、新たな仮説が浮上したので、ここで取り上げたい。
そもそも、赤松系大塚氏の4グループについて見ていったときに、
① 播磨に残った赤松支流大塚氏
② 有馬氏に従って久留米藩に移動した大塚氏
③ 小寺家臣を経て、黒田氏に従い福岡藩に移動した大塚氏
④ その他
という分類を提示した訳だが、この「その他」の流れをもう少し突っ込んでみたいわけである。
原点に戻ろう。
我が大塚家のルーツ探しにおいて、大きなポイントとなった「寛政重修諸家譜」であるが、ここに「抱き茗荷」紋の大塚氏がいる、という発見が基本的にはこのブログのテーマそのものなのである。
しかし、考えてみたら、「寛政ほにゃらら~(以下寛政譜)」に載っている大塚さんは、②や③ではないのである。
「幕臣」大塚氏として記載されているのであるから、有馬家臣でも黒田家臣でもなく、あえて言おう。
徳川家臣の大塚氏
というわけなのだ。
そもそも、寛政譜の出来た経緯というのは、簡単に言えば幕府が徳川に従う者たち(大名・幕臣など諸家)に
「おまえんとこのルーツを書いて、提出しなさい」
という命令を出して、各家が
「はい、うちはこうですねん。こういう由来やいわれがあるそうですねん」
という回答を上奏した結果なのだ。当然、それが史実かどうか検証する客観的手段はないのだから、徳川幕府とすれば
「・・・って言ってるから、そうらしいわ。とりあえず、そう書いておこう」
という扱いをする以外にないわけである。
まどこっろしいが、何を言いたいのかといえば、こういうことだ。
とある幕臣の大塚氏がいて、「おまえのルーツはなんだ?」と尋ねられて、「うちは赤松家の支流の大塚だと聞いてます」と答えた、それが寛政譜の記載になるわけである。
(↑ざっくりといえば、であるが)
では、その大塚氏は、どこから徳川に仕えることになったのか。基本的には①か④であり、播磨は特段徳川氏と直接関係があるとは思えないので、④の可能性を探るべし、ということになりはしないか?
点と線をつなぐ作業が必要になりそうである。
「この大塚氏は、いったいどこから江戸に来たのか?!」
これが、この章のテーマである。
(つづく)
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