2014年1月2日木曜日

<25>【6】大塚氏の源流か?!赤穂大塚古墳とその周辺

 さて、これまで有馬氏との関わりで見れば、三木周辺の「大塚」にまつわる地名が怪しいと思っていたのだが、ここへ来てもう一箇所、「なんだか匂いがプンプンする!」という場所が見つかった。

 三木の問題点は、室町時代には既に成立していたはずの「大塚姓」との接点があまりなく、むしろ戦国時代から安土桃山時代周辺の「江戸期に近い」時期に話が集中しているところがマズいのである。

 ああ、マズい!たしかにマズいのだ。

 有馬氏だけを見ていれば、有馬-大塚ラインの接点は美嚢郡(三木)ということになるが、小寺氏との関係ではそうはいかない。

 そして、今後さらに新発見に繋がるのだが、実は「大塚氏」は有馬氏や小寺氏だけでなく「細川氏」とも関係が出てくるので、ますます話がおかしくなるのである。


 ★↑細川氏との怪しい関係については、次回以降を待て!!★


 というわけで、僕が勝手に推測した仮説はこうだ。

 大塚氏は、赤松と血縁があろうがなかろうが、もっと初期に赤松本家と接点があるに違いない。だとすれば、赤松氏が起こったのは播磨国佐用荘赤松村だから、もっともっと西側ということになる。

 赤松氏は、西側からどんどん東へ勢力を伸ばし、(ああ、ついでにより西側の岡山県側にも進出していっ)たわけだから、初期に赤松との接点があるとすれば、佐用の近くではないか?!と考えることができる。

 旧播磨国の群割りは、ウィキペディアを参照してほしい。

 


http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a3/Harima_province_rough_map.PNG


引用元 ウィキペディア 

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a3/Harima_province_rough_map.PNG


 佐用(作用)郡は、播磨の西のはしっこである。大塚重太夫や大塚将監のいた姫路市は、飾磨郡、そして、有馬氏の美嚢郡は東のはしっこに当たる。

  中世から近世への、時代の流れと、赤松氏と大塚氏の関係性は、もしや西から東へ、という

進撃の・・・・!

ルートなのではないか?!(←このネタは、無理矢理です)


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 そこで、気になるのが赤穂の「尾崎大塚古墳」である。

 ふたたび「古墳」さんのサイトから見てみよう。

 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/4702/ozakiootuka.html

 「尾崎大塚古墳」そのものは、↑で紹介されているとおりの石室の残る「古墳」である。


 踏査にいこう! さんのサイトにもレポートがあったので、ご紹介。

 http://shashino.blog.fc2.com/blog-entry-13.html

 
 さて、古墳自体については、前回と同じく「古墳時代の遺跡」に過ぎないので直接的にここから「大塚氏」につなげるのは難しい。

 しかし、実はこの一帯「大塚海岸」として現在も地名に大塚が残っているという。怪しいではないか!

 尾崎大塚古墳の位置は、yahoo!地図さんによると

 http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?lat=34.74320609&lon=134.41907110&ac=28212&az=9&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E8%B5%A4%E7%A9%82%E5%B8%82%E5%B0%BE%E5%B4%8E

である。

 その南、野外活動センターのあたりが「大塚海岸」と呼ばれているらしい。

 そりゃまあ、そうだ。大塚=古墳の近くの海岸なのだから。

 
 さて、この尾崎には天台宗の寺が2つある。ひとつは、聖徳太子によって開かれたという「普門寺」だが、寺の由緒によれば、もともとはこの地にあったわけではないらしい。

 明王山 普門寺さん のサイトより

 http://www.e-ako.sakura.ne.jp/fumonji/contents/03_yuisyo_00.html

 
 もうひとつは如来寺というが、こちらは赤穂八幡宮の神宮寺としてスタートしている。

 赤穂市観光 さんのサイトより

 http://www.hyoutabi.com/akou/nyorai.html

 この赤穂八幡もここにあったわけではなく、赤穂市さんのサイトによると、「1406年に銭戸島から移された」とされている。

 赤穂市 さんのサイトより

http://www.city.ako.lg.jp/kensetsu/kankou/shisetsu/kanko/hachimangu.html


 うーん、三木の時のように、ズバッと物的証拠があるわけではない感じですっきりしない。少なくとも、1406年で足利義満の時代なので、近いようで、逆に赤松氏は既にバリバリ現役なのでずれているような気もする。

 赤松最大の功労者、円心が1350年に死んでいるので、個人的には大塚氏との接点は1400年よりもう少し早い気もするのである。

 

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 しかし、もう一つ気がかりなことがある。それは当ブログでもちょくちょく触れているが、抱き茗荷=摩多羅神=秦氏という関係が成り立つとすれば、この「赤穂尾崎」地区の東隣の海岸は「坂越(さこし)」地区といって、なんと秦氏の元祖「秦河勝」が没した地として有名なのである。

 これは単なる偶然であろうか?!


 播磨国の秦氏系の痕跡は、この坂越を中心に広がっている。学者によっては、赤松氏そのものが実は「秦氏」の末裔で、この地区での秦氏の広がりと赤松氏の広がりが連動している、という説を唱える人もいるらしい。

 また、赤松氏が秦氏でなかったとしても、この地区の秦氏の力を借りて、あるいは巻き込んで赤松氏が播磨一帯に進出していった、という説もある。

 天台宗寺院、という物理的な痕跡はちょっと物足りないが、秦氏との関係で言えば、「赤穂尾崎大塚」は、かなりいい線をいっているようにも思える。


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 まとめると、赤穂を巡る「大塚氏」の仮説は3つである。


① 赤松氏は、秦氏であり、佐用から赤穂一帯にまず勢力を伸ばした。大塚氏は、そのうち赤穂を中心に活動した支流であり、赤松本家とともに、播磨中心部へと進んでいった。
(赤松も大塚も秦氏説)

② 赤松氏は、佐用から起こり、西播磨の秦氏の力を借りながら東へ進んでいった。そのときに、秦氏のうち赤穂に住んでいた地元の豪族と合流し、その子孫が元の土地「大塚」を名乗った。
(大塚だけ秦氏説)
 
③ 赤松氏は佐用から起こり、少しずつ東へ進んで土地を治めていった。そのうち赤穂に一時定着した者が「大塚」姓を名乗ったが、赤松本家とともに、さらに播磨中央部へ進んだ。大塚の地で、秦氏との接触があり、天台信仰を得て抱き茗荷紋を用いた。
(赤松氏、大塚氏とも秦氏ではない説)

 さあ、事実はいったいどれなのか?!・・・・・・わからん!!!


 




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