2014年1月2日木曜日

<23>【3】但馬と大塚のそこはかとない関係

 大塚、の地名は実は但馬にもあり、現在の養父市大塚がその地である。


yahoo!地図 さんより
 http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?ei=UTF-8&type=scroll&mode=map&lon=134.82299838&lat=35.37700415&p=%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E9%A4%8A%E7%88%B6%E5%B8%82%E5%A4%A7%E5%A1%9A&z=16&layer=pa&v=3&ac=28222&az=009



 古くは「大塚庄」だったらしく、

 丹ものがたり さんのサイトには面白い話が伝わっていることが書いてある。

 http://sakezo.web.fc2.com/sengoku2.html




 記事によると、竹田赤松氏の家老が養父大塚庄を領地としてもらった、とのことなので、やっぱりここにも赤松氏が登場!というわけだ。

 竹田赤松氏の竹田とは、グーグルさんのCMでも有名になったあの「天空の城ラピュ・・・竹田城のことに他ならない。

  もともと、竹田城は山名宗全によって築城され、その部下太田垣氏が治めることになるのだが、この但馬山名・太田垣氏と播磨赤松氏は、室町期から戦国期までガチンコでぶつかりまくるようになる。

 そりゃそのはずで、播磨と但馬は南北で隣同士なので、勢力争いが起きて当たり前。その結果、一時は赤松側がやられたり、やり返したりして、結局また案の上いろいろあって、秀吉が登場(笑)。織田軍は最終的に秀吉の弟が竹田城を落とすことに成功したわけで。

 
 で、結局竹田城最後の城主は、赤松氏になるのだが、関が原の合戦の結果、家康は「はい、廃城!」との命令を下して現代に至る、というわけ。



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 もちろん、山名氏も赤松氏とおなじく室町幕府四天王の一人であるから、この地域に早くから「大塚」が起こって山名氏にくっつき、その後赤松氏にくっついた、という仮説も作れないわけではないが、室町期~江戸初期までずっと記録的に「赤松-大塚」ラインのほうが多い(強い)ので、やっぱり但馬系大塚説は無理があるような気がする。

 というわけでこの地については、いちおうチェックだけしてまた検討、ということで済ませておこう。

 


  

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