ハリウッド時代劇といえば、「ラストサムライ」がおなじファンタジーとは言え、名作であることは否めない。「47RONIN」も「ラストサムライ」みたいなイメージで製作したかったのだろうが、残念な結果になってしまったのは何故なんだか。
実は、僕の大学時代の友人は、この本家「忠臣蔵」と「幽霊になぜ足がないのか」という興味深い謎をからめて卒論を書こうとしたが、ちょっとばかり論証が足りずに今一歩の結果になってしまったという思い出がある。
でも、目のつけどころはかなり面白い。物証があれば驚くべき発見に繋がったかもしれないと今でも思う。
ちなみに、その時の僕は、人形浄瑠璃における人間と人形の共演について研究しており、簡単に言えば「伊藤かずえとニャンちゅうが、どうして人と人形という生命体と非生命体なのに、おなじ舞台上で会話を交わせるのか」という究極の問題について卒論を書いた。
いや、ニャンちゅうは「たとえ」なので、「どーもくんとあんりお姉さん」でも、「じゃじゃ丸ぴっころゴロリ」でも、「いつも元気なワンワンでーす、とほのぼのさん」でもなんでもいいのだが。
それはさておき、僕の卒論はその年のR館大学文学部日本文学専攻の次席を取り、学生論集に収録されているので、読みたい人はどうぞ。
ちなみに、その年首席だった女の子には、学会での発表と金時計が送られたのだそうだが、彼女に「大塚くんは、あたしの永遠のライバルだと思ってるの」と卒業後に言われた記憶があるようなないような。
もしかしてだけど~、もしかしてだけど~♪ 彼女はオイラに惚れてたんじゃないの~♪
・・・・・・もし、その子が読んでたらマズいので、かなりフィクションだと申し添えておく。
あ、でも彼女は高橋由美子に似た美人さんだったので、実は僕も好きでした。
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話は、もとに戻る。なんせ今回は、「ついに!発見か!大塚氏の源流!」スペシャルなのだ。あの毎回ドキドキさせられた「徳川埋蔵金スペシャル」バリの特番なのである。
さっそく、我が赤松支流大塚家のルーツを掘り起こしにかかろう!
そのキモになるのが「ラストサムライ」で一躍有名になった「書写山円教寺」である。そう、あの勝元(渡辺健)のお屋敷として使われた侘びさびのあるお寺だ。
そもそも、どうして思いつかなかったのか、と悔やんだのだが、抱き茗荷紋が天台宗と関係があるらしい、という話を書いたのは、かなり以前のことで、だいたいその時に気付くべきだったのだ。
書写山円教寺こそ、播磨最大の天台宗別格本山である
ということを。
そのことを再確認させられたのは、やはり「事件は現場で起きてんだ!(織田裕二)」というあの名台詞の通りであった。
僕がネットを見ながら「ぽんからきんこんかん」とキーボードを叩いているだけでは気付かなかったものすごいことが、現場で起きていたのである。
現場は、ここだ。
http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?p=%E5%B3%B0%E7%9B%B8%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1&lat=34.8842035&lon=134.6351071&ei=utf-8&datum=wgs&lnm=%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%B3%B0%E7%9B%B8%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1&idx=33&v=2&sc=3&uid=b11234d6ae8e4a9ba022070045dd115164d836b9&fa=ids
地図を表示してほしいのだが、姫路市立峰相小学校付近、姫路市打越地区がその舞台である。
この峰相小学校の横に「岩崎構」の碑文があり、「室町時代大塚重太夫が住んでいて、隣の香山構主、本庄次基と地境争いをした」という。
そして、もうひとつの現場が、ここ。
http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?ei=UTF-8&type=scroll&mode=map&lon=134.63634202&lat=34.89385965&p=%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%B8%82%E5%88%80%E5%87%BA&z=16&layer=pa&v=3&ac=28201&az=062
地図内に「天神神社」があると思うが、そこが「香山構」跡であり、こちらには新しい碑文が建っている。
碑文の内容は姫路市の資料を参照してほしいのだが
http://www.city.himeji.lg.jp/var/rev0/0017/8995/2009811132938.pdf#search='%E9%A6%99%E5%B1%B1%E6%A7%8B+%E6%9C%AC%E5%BA%84'
【香山構跡】
碑文 「赤松大系図によると室町時代置塩城主に仕えていた本庄新
十郎長永は谷口樫谷穴師を領地としていた」
とある。
本庄次基と、本庄新十郎長永という名前の違いはあるが、岩崎構=大塚氏で、香山構=本庄氏であることがわかる。
そして、碑文より本庄氏は「置塩城主」つまり、赤松政則、義村、晴政、義祐、則房の5代のうちの誰かに仕えていたことがわかるのである。
さて、この時、大塚氏も置塩城の家臣であったかどうかは明記がない。
もし、このときの大塚氏が赤松家臣でなければ、播磨の一氏族で、のちに赤松に征服・合流されたことになるし、すでに赤松氏の支配下にあったとすれば、内輪で本庄氏とごにゃごにゃケンカしていたことになる。
というわけで、岩崎構と香山構、そして赤松本拠地置塩城との関係がなんとなくまとまったところで、ラストサムライである。
実は、この両地域、地図をズームアウトしてみればすぐにわかるが、書写山のふもとなのである。それも、すぐ真下に位置する。
これで、大塚氏と抱き茗荷の関係も、一応説明がつく。当時の大塚氏が、天台信仰を持っていても全く不思議ではない、というか地理的特性から、恐らくそうに違いない、とまで言えそうだ。
そして、さらに、新しい発見に繋がるのである!待て次回!
(つづく)
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