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2014年2月8日土曜日

<38>有馬氏と大塚氏を結ぶ「点と線by松本清張」

 松本清張「点と線」は、福岡の物語である。福岡県香椎の海岸で見つかった情死体をめぐって、博多のベテラン刑事「鳥飼重太郎」が、夜行特急「あさかぜ」を使ったトリックのアリバイ崩しをしてゆく、という名推理小説である。

 ちなみに、横溝正史だの、松本清張だの、つぎつぎに古いネタを投入しているが、私はまだ30代のピチピチであることを告白しておこう。

 30代だが、幼稚園児のころから、ポプラ社の「ルパンシリーズ」「少年探偵団シリーズ」「ホームズシリーズ」を次々に読破し、それから江戸川乱歩の変態チック小説で中学時代は萌え、気がつけば赤川次郎もほとんど全て読んでしまったという伝説を持つとか持たないとか。


 加えて、亡き父親が、今度は「時代小説」マニアであったため、「桃太郎侍」といえば、高橋英樹も好きだが

 山手樹一郎(原作)

のほうがやっぱり好き、という変態息子ぶりを発揮している。ちなみに、時代劇俳優では

 市川雷蔵 円月殺法

に目がない。


 なんのこっちゃ。


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 今回も、ツカミが冴え渡ったところで、本論に入る。

 後藤将監あらため大塚将監の一族が黒田家臣になる、という接点ははっきりわかる。そもそも後藤又兵衛は、まるっとごりっと黒田官兵衛の一番弟子みたいなものである。

 後藤本流は、秀吉播磨攻めで滅んだが、一族がいろんな形を経て黒田家に従っていったことは理解しやすい。


 しかし、んがしかし、である。


 問題は久留米有馬家のほうだ。有馬氏と大塚氏を結ぶ接点はどこにあるのか。

 もちろん、我が一族がもと後藤氏だと仮定しての話だが、それはわかった上で、この謎を解く「点と線」を探ってみたい。


 その謎は、おそらくこうだ。


 久留米有馬藩、初代藩主である有馬則頼は、播磨「満田城」(現三木市志染)に生まれる。それから、彼が使えた主君が、


 ウィキペディア「有馬則頼」によれば


 三好長慶、そして「別所長治」である。


そしてなんと、則頼の嫁はんは、別所長治のいとこの「別所忠治」の娘なのである。




 ウィキペディア「別所長治」



 別所氏は、当初織田信長に従っていたものの、途中で反逆する。そのため、別所氏は三木城に篭もって秀吉から攻め立てまくられ、滅ぶのだが、この期間、又兵衛の父「後藤基国」は別所氏に仕え、それから小寺氏に仕えている。


 ウィキペディアの説明では、なんと後藤基国が、別所長治の子を逃がした、との逸話も載っている。

 ここで、線と点が繋がったわけだ。

 
 つまり、後藤氏も、有馬氏も、当初別所氏に仕え、別所氏が信長に反逆した時点で、有馬氏は秀吉方についたため戦功を挙げ、後藤氏はそのまま別所方にいたが、途中で別所の元を去り、小寺氏に付いた、ということになる。


★播磨後藤氏については以前にも紹介したが、

 黒田前史 さんのサイトにとても詳しい説明がある。
 http://www.geocities.jp/kurodazensi/361.html


 ここでは、播磨後藤氏と「別所氏との接点」があったかもしれないが、「別所氏に仕えた」のはおかしい、という指摘がある。
 

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 他の可能性も探ってみる。

 大塚将監は、「播磨鑑」によれば赤松の家臣ということになっている。つまり、置塩殿(赤松本流)の部下というわけだ。このころの後藤又兵衛、また黒田官兵衛も、あるいは小寺氏も、みな置塩赤松氏の軍門に存在している、ということを頭に入れておこう。

 しかし、この頃の赤松氏は、本流とはいえ、既にかなり狭い領域しか支配していない。

 別所・宇野・龍野赤松などは好き勝手やっているし、小寺氏ですら、この時はまだ置塩殿を立ててはいるが、後に裏切って毛利方に付くことになる。


 ヒントはやはり「播磨攻め」であろう。置塩赤松氏は結局信長に従い、現地指揮官としてやってきた秀吉に屈するわけで、そのとき播磨の道先案内の功を立てたのが「有馬則頼」ということになのだ。

 秀吉は、現地の小さな城を一つずつ、支配下に置いていく。当然、そこには有馬氏がいる。そういう流れの中で、大塚氏が有馬氏と出会っても、不思議ではない。そもそも、有馬氏から見れば、置塩赤松とて同族なのである。


 
 後藤大塚氏と有馬の接点は、どうやらこのあたりにあるのではないのか?


 赤松系一族が「誰につくのか」「誰と戦うか」でもめにもめたこの時期。まさに、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」ではこのへんの話をやっているのだが、後藤大塚一族が、ここで小寺(黒田)家臣と有馬家臣に分かれたと考えることは、それほど変ではないと思うのである。


★実は、後藤基国の行動は、全体によくわかっていない。なので、史実に登場する又兵衛の父というのは、基国かどうかも怪しいところもある。しかし、概ね「播磨後藤氏」の動きだと仮定しても、話は合う。又兵衛たち「後藤一族が、おおむねこう動いた」という視点でざっくりおさえるほうが正しいと考える。



<<余談>>

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で、小寺・黒田親子が「おのれ赤松ぅ!」と何度も叫んでいるのだが、あれはやっぱり違和感がある。浦上氏との婚礼の日におたつが殺されるエピソードで、赤松政秀が攻めてきて、「おたつ」は殺されてしまうのだが、あれは龍野赤松氏であり、「おのれ政秀!」的な感じのほうがいいのかな、と思う。

 赤松、という呼び方で言えば、小寺自身も赤松の親類であり、それよりも置塩赤松宗家に対してちょっと気がひけるというか・・・。



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 そして、今回もうひとつの「点と線」をお届けしたい。

 それは「後藤将監がなぜ”大塚”を名乗ったか」である。


 大和國古墳墓取調室 さんのサイトを見てほしい。



 ここには、姫路市北東部の古墳についてまとめて紹介してあるのだが、ここには全長40mクラスの古墳が山田町に2つあることが載っている。

 諏訪の岩穴古墳・御大師山古墳のいずれかをもって「大塚」と名乗った可能性はある。

 あくまで可能性、ではあるが・・・。


 黄門ちゃま漫遊記 さんのブログに訪問記あり。


 諏訪の岩穴古墳は、玄室そのものが神殿になっているという珍しい神社である。上野構からすぐ近くにある。


山歩きろく さんのブログに訪問記あり。


 こちらは、御大師山古墳の訪問記。梅林寺という天台宗の寺の裏山に当たるのだが、


天台宗兵庫教区 さんのサイトより「梅林寺」


 梅林寺そのものは、のちに移ってきたものらしいので、大塚将監の時代とは合致するかどうかわからない。梅林寺さんの由来には、もとの「梅林寺」は赤松の兵火に焼かれた、とある。

 この山(古墳)も、地元の民の崇拝の対象になっていたらしい。後藤将監が「大塚」と呼んだ塚に相当する可能性も捨てきれない。



 ちかいうちに、現地へいけたらいいなあ!






 





 





2014年1月27日月曜日

<32-1>振りだしに戻る大発見か?!謎が謎を呼ぶ播磨「大塚将監」の正体!

 なんということでしょう!

 先日、ある程度メドがついたと思われる「播磨の赤松家臣、大塚氏」のルーツについての調査であったが、ここへきて振り出しに戻るような発見があったので、慌てふためいているところである。

 一体、何を見つけてしまったというのか。それは、姫路の上野構に住んでいたとされる赤松氏の家臣、「大塚将監」の正体である。

 やばい!これはヤバすぎる大発見かもしれない。


・・・・・・というのも、僕は残念ながら歴史の専門家ではなく、どちらかといえば文学の専門家なので、(あはは)、詳しい人が見れば当ブログの内容をみて

 ここが間違ってるよ

とか

 ここがおかしい!

とかいっぱい突っ込まれても仕方がないのだが、ああ、人に指摘されるよりも自分で気付いてしまったときの恥ずかしさよ!

(これまでの記事の多くを消し去りたいが、とりあえず残しておくことにする)


 いや、しかし。崩れ落ちそうな膝を立て起こして、頑張ってその事件を追っていくことにしよう。


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 もういちど、経緯をまとめておく。久留米藩士であった我が大塚一族の家紋が「抱き茗荷」であり、「寛政重修諸家譜」記載の抱き茗荷紋大塚氏が「村上源氏赤松支流」とのことだったので、その文言をもとに播磨の赤松氏を追っていったのが、このブログのこれまでの記事である。


 そして、赤松氏と大塚氏の接点が2つ発見され、ひとつは姫路市の「上野構」の「永禄年間」の城主が「赤松氏の家臣の大塚将監」だったことがわかり、もうひとつはこれまた姫路市の「岩崎構」の「室町時代」の城主が「大塚重太夫」だったことがわかったのであった。


 これで、赤松-大塚ラインが存在することがわかり、特にわが家系については、赤松氏の子孫であった有馬氏経由で、久留米藩へ入ったという「点と線が繋がった」ので、ざっくりとルーツが判明した、というところまでは既にお伝えしている。


 この時、おなじ赤松一門の小寺氏経由で、今をときめく「黒田官兵衛」の家臣として大塚氏が存在し、この流れで福岡藩に大塚一族が根付いたという可能性も示してきた。


しかし、こうした推理が、ある程度どんぶり返りそうな勢いで、新発見をしてしまったわけである。

 
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 物語は、久留米藩経由ではなく、黒田福岡藩経由ではじまる。

 黒田官兵衛には、「後藤又兵衛」なる有名な部下がいる。この後藤基次は、後藤基国という「別所氏家臣で、のちに小寺氏に仕えた」おっさんの次男として生まれ、官兵衛に仕えたり、のちに黒田家を出奔して浪人になり、豊臣家に仕えたりして、最終的には大阪夏の陣がらみで戦死することになる。

 後藤氏は、藤原利仁の子孫である(利仁流)。いろいろあって、姫路・福崎町の春日山城に拠点を持っていたが、のちに勢力を拡大した赤松氏と協調関係でやっていかざるを得ないようになり、戦国時代には前述したように、赤松系の緒家と関係しながら細々と命脈を繋いでいた。

 この後藤氏から大塚氏が出たことは、すでに

「全大塚氏族超まとめスペシャル」
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html

の<AI>後藤氏(大塚) 藤原氏利仁流 家紋不明 として掲載しているのだが、詳しいことはわからないままだった。

 
 さて、ここで発見したのが、次のサイトの記述だ。

 播磨黒田氏 黒田官兵衛 さんのサイトより
 http://www.geocities.jp/kurodazensi/361.html


 ここでは黒田家の前史について研究なさっているのだが、ここに「後藤基国」の系図が載っていて、基国の長男「基」が、上野蟄居後、大塚を名乗ったということが書いてある。

 ん?と僕はここでかなりひっかかった。というかピンと来た。

 上野、大塚・・・。そうだ。これは怪しいのだ。


 同じページに、又兵衛の父、基国のことはよくわからん人物だと説明されているのだが、なんと、彼は他のサイトを調べると

 後藤新左衛門、後藤将監、後藤将監基国

と呼ばれているのだ、


 戦国武将列伝 さんのサイトより
http://senjp.com/goto-2/


 他にも、多数このことを書いているサイトはある。

 ちなみに、又兵衛が生まれたとされる1560年はまさに年号でいえば「永禄」である。時代も符合する。


 つまり、これまで僕が追いかけていた大塚将監とは、後藤又兵衛の親父もしくは、その跡を継いだかもしれない又兵衛の兄貴、の可能性がめちゃくちゃ高いのである。



 となると、少なくとも福岡藩の大塚氏は、こちらの系統の可能性もある。播磨後藤氏の家紋は「下がり藤」であり、福岡藩系列の大塚さんの家紋が「下がり藤」ならドンピシャだ。

 あるいは、もっとすごいことを考えるのだが、赤松支流大塚氏とは、「播磨後藤氏」の姿を変えた一族、という大胆仮説もありうる。

(もっとも、その場合は、大塚重太夫との整合性がずれてくるので、赤松家臣の大塚氏は

①大塚重太夫系の古い大塚氏

②大塚将監系の新しい大塚氏

の2種類が存在することになるのか?!)


 そして、この話が確定してくると、これまで赤松系大塚氏について挙げてきた「4つのグループ」そのものがさらに広がってくるのである。

①久留米藩に残る大塚氏 系統【1】赤松支流大塚氏 抱き茗荷

②福岡藩に残る大塚氏 系統【2】赤松系大塚氏(もと後藤氏 家紋不明(下り藤?))あるいは、福岡藩にも【1】がいるのか?

③播磨に残る大塚氏は、【1】なのか【2】なのか、それとも両方か?

④その他の地域に残る大塚氏は 【1】なのか【2】なのか?!


 これは、なかなかすごいことになってきた!


とにかく、福岡県の大塚さん、家紋を教えてくださいませ!!


(特に、黒田藩の家臣だった方、プリーズ)