ちなみに、横溝正史だの、松本清張だの、つぎつぎに古いネタを投入しているが、私はまだ30代のピチピチであることを告白しておこう。
30代だが、幼稚園児のころから、ポプラ社の「ルパンシリーズ」「少年探偵団シリーズ」「ホームズシリーズ」を次々に読破し、それから江戸川乱歩の変態チック小説で中学時代は萌え、気がつけば赤川次郎もほとんど全て読んでしまったという伝説を持つとか持たないとか。
加えて、亡き父親が、今度は「時代小説」マニアであったため、「桃太郎侍」といえば、高橋英樹も好きだが
山手樹一郎(原作)
のほうがやっぱり好き、という変態息子ぶりを発揮している。ちなみに、時代劇俳優では
市川雷蔵 円月殺法
に目がない。
なんのこっちゃ。
=========
今回も、ツカミが冴え渡ったところで、本論に入る。
後藤将監あらため大塚将監の一族が黒田家臣になる、という接点ははっきりわかる。そもそも後藤又兵衛は、まるっとごりっと黒田官兵衛の一番弟子みたいなものである。
後藤本流は、秀吉播磨攻めで滅んだが、一族がいろんな形を経て黒田家に従っていったことは理解しやすい。
しかし、んがしかし、である。
問題は久留米有馬家のほうだ。有馬氏と大塚氏を結ぶ接点はどこにあるのか。
もちろん、我が一族がもと後藤氏だと仮定しての話だが、それはわかった上で、この謎を解く「点と線」を探ってみたい。
その謎は、おそらくこうだ。
久留米有馬藩、初代藩主である有馬則頼は、播磨「満田城」(現三木市志染)に生まれる。それから、彼が使えた主君が、
ウィキペディア「有馬則頼」によれば
三好長慶、そして「別所長治」である。
そしてなんと、則頼の嫁はんは、別所長治のいとこの「別所忠治」の娘なのである。
そしてなんと、則頼の嫁はんは、別所長治のいとこの「別所忠治」の娘なのである。
ウィキペディア「別所長治」
別所氏は、当初織田信長に従っていたものの、途中で反逆する。そのため、別所氏は三木城に篭もって秀吉から攻め立てまくられ、滅ぶのだが、この期間、又兵衛の父「後藤基国」は別所氏に仕え、それから小寺氏に仕えている。
ウィキペディアの説明では、なんと後藤基国が、別所長治の子を逃がした、との逸話も載っている。
ここで、線と点が繋がったわけだ。
つまり、後藤氏も、有馬氏も、当初別所氏に仕え、別所氏が信長に反逆した時点で、有馬氏は秀吉方についたため戦功を挙げ、後藤氏はそのまま別所方にいたが、途中で別所の元を去り、小寺氏に付いた、ということになる。
★播磨後藤氏については以前にも紹介したが、
黒田前史 さんのサイトにとても詳しい説明がある。
http://www.geocities.jp/kurodazensi/361.html
ここでは、播磨後藤氏と「別所氏との接点」があったかもしれないが、「別所氏に仕えた」のはおかしい、という指摘がある。
つまり、後藤氏も、有馬氏も、当初別所氏に仕え、別所氏が信長に反逆した時点で、有馬氏は秀吉方についたため戦功を挙げ、後藤氏はそのまま別所方にいたが、途中で別所の元を去り、小寺氏に付いた、ということになる。
★播磨後藤氏については以前にも紹介したが、
黒田前史 さんのサイトにとても詳しい説明がある。
http://www.geocities.jp/kurodazensi/361.html
ここでは、播磨後藤氏と「別所氏との接点」があったかもしれないが、「別所氏に仕えた」のはおかしい、という指摘がある。
==========
他の可能性も探ってみる。
大塚将監は、「播磨鑑」によれば赤松の家臣ということになっている。つまり、置塩殿(赤松本流)の部下というわけだ。このころの後藤又兵衛、また黒田官兵衛も、あるいは小寺氏も、みな置塩赤松氏の軍門に存在している、ということを頭に入れておこう。
しかし、この頃の赤松氏は、本流とはいえ、既にかなり狭い領域しか支配していない。
別所・宇野・龍野赤松などは好き勝手やっているし、小寺氏ですら、この時はまだ置塩殿を立ててはいるが、後に裏切って毛利方に付くことになる。
ヒントはやはり「播磨攻め」であろう。置塩赤松氏は結局信長に従い、現地指揮官としてやってきた秀吉に屈するわけで、そのとき播磨の道先案内の功を立てたのが「有馬則頼」ということになのだ。
秀吉は、現地の小さな城を一つずつ、支配下に置いていく。当然、そこには有馬氏がいる。そういう流れの中で、大塚氏が有馬氏と出会っても、不思議ではない。そもそも、有馬氏から見れば、置塩赤松とて同族なのである。
他の可能性も探ってみる。
大塚将監は、「播磨鑑」によれば赤松の家臣ということになっている。つまり、置塩殿(赤松本流)の部下というわけだ。このころの後藤又兵衛、また黒田官兵衛も、あるいは小寺氏も、みな置塩赤松氏の軍門に存在している、ということを頭に入れておこう。
しかし、この頃の赤松氏は、本流とはいえ、既にかなり狭い領域しか支配していない。
別所・宇野・龍野赤松などは好き勝手やっているし、小寺氏ですら、この時はまだ置塩殿を立ててはいるが、後に裏切って毛利方に付くことになる。
ヒントはやはり「播磨攻め」であろう。置塩赤松氏は結局信長に従い、現地指揮官としてやってきた秀吉に屈するわけで、そのとき播磨の道先案内の功を立てたのが「有馬則頼」ということになのだ。
秀吉は、現地の小さな城を一つずつ、支配下に置いていく。当然、そこには有馬氏がいる。そういう流れの中で、大塚氏が有馬氏と出会っても、不思議ではない。そもそも、有馬氏から見れば、置塩赤松とて同族なのである。
後藤大塚氏と有馬の接点は、どうやらこのあたりにあるのではないのか?
赤松系一族が「誰につくのか」「誰と戦うか」でもめにもめたこの時期。まさに、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」ではこのへんの話をやっているのだが、後藤大塚一族が、ここで小寺(黒田)家臣と有馬家臣に分かれたと考えることは、それほど変ではないと思うのである。
★実は、後藤基国の行動は、全体によくわかっていない。なので、史実に登場する又兵衛の父というのは、基国かどうかも怪しいところもある。しかし、概ね「播磨後藤氏」の動きだと仮定しても、話は合う。又兵衛たち「後藤一族が、おおむねこう動いた」という視点でざっくりおさえるほうが正しいと考える。
<<余談>>
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で、小寺・黒田親子が「おのれ赤松ぅ!」と何度も叫んでいるのだが、あれはやっぱり違和感がある。浦上氏との婚礼の日におたつが殺されるエピソードで、赤松政秀が攻めてきて、「おたつ」は殺されてしまうのだが、あれは龍野赤松氏であり、「おのれ政秀!」的な感じのほうがいいのかな、と思う。
赤松、という呼び方で言えば、小寺自身も赤松の親類であり、それよりも置塩赤松宗家に対してちょっと気がひけるというか・・・。
==========
そして、今回もうひとつの「点と線」をお届けしたい。
それは「後藤将監がなぜ”大塚”を名乗ったか」である。
大和國古墳墓取調室 さんのサイトを見てほしい。
ここには、姫路市北東部の古墳についてまとめて紹介してあるのだが、ここには全長40mクラスの古墳が山田町に2つあることが載っている。
諏訪の岩穴古墳・御大師山古墳のいずれかをもって「大塚」と名乗った可能性はある。
あくまで可能性、ではあるが・・・。
黄門ちゃま漫遊記 さんのブログに訪問記あり。
諏訪の岩穴古墳は、玄室そのものが神殿になっているという珍しい神社である。上野構からすぐ近くにある。
山歩きろく さんのブログに訪問記あり。
こちらは、御大師山古墳の訪問記。梅林寺という天台宗の寺の裏山に当たるのだが、
天台宗兵庫教区 さんのサイトより「梅林寺」
梅林寺そのものは、のちに移ってきたものらしいので、大塚将監の時代とは合致するかどうかわからない。梅林寺さんの由来には、もとの「梅林寺」は赤松の兵火に焼かれた、とある。
この山(古墳)も、地元の民の崇拝の対象になっていたらしい。後藤将監が「大塚」と呼んだ塚に相当する可能性も捨てきれない。
ちかいうちに、現地へいけたらいいなあ!
0 件のコメント:
コメントを投稿