「大塚隠岐」関連の調査中ですが、いったん「古賀伊豆」ネタを挟みます。
天正時代に、筑後三潴郡の八丁牟田に来た「古賀伊豆」と絵下古賀に来た「隠岐」ですが、そもそも、どちらも「龍造寺家臣」とは寛延記に書かれているものの、実はふたりとも龍造寺軍団における立ち位置がよくわかっていません。
「隠岐」については、神代家臣の「大塚隠岐」ではないか?と推定していますので、彼自身は「神代長良」がもともとの主君で、「龍造寺隆信」配下になり、最終的には「鍋島直茂」の配下になったのかどうなのか?というあたりを調べている真っ最中ですね。
古賀伊豆(守)については、その後「筑後国の大庄屋」になったことがわかっており、その後も古賀氏とその子孫についての記録はちらちらと散見できるのですが、実は「古賀伊豆の”それ以前”」がよくわからないのです。
そこで、今回は、そのあたりがチラリと推測できそうな記述が見つかりましたので、メモ書きしておきます。
ネタ元は「筑後国史」です。ある意味有名な「大庄屋のはじまり」の部分ですが、見落としがありました。
” 天正15年 小早川は筑前15郡と肥前のうち2郡、筑後のうち生葉・竹野2郡を賜う。
隆景の代官、入江輿三兵衛と木原善右衛門が下向し、鍋島より原田大蔵を差し副えられ、3人同伴にて吉井に来たり、石井和泉(いまの大庄屋石井氏の祖)、古賀伊豆(数代大庄屋役たり、今下見役、古賀氏の祖)、田代興善(いま大庄屋田代氏の祖)、この三家に止宿し、この3人に大庄屋役を命ず”
となっています。
小早川隆景により、筑後の大庄屋3人が命じられた、という話はこれまでに何度もしていますが、
■ 鍋島から「原田大蔵」という案内役が一緒に来ていた
という点は、完全に見落としですね。
そうすると、現地案内役が鍋島から派遣されているので、大庄屋に任命された3人も、なんらかの形で鍋島の影響下にあったと考えてよいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿