2014年11月15日土曜日

<96・特別編>現代まで続く赤松一族の末裔 播磨赤松氏 某墓所へ

 先日からの特別編で、黒田官兵衛ちゃんが「実は赤松氏の末流ではないか」説についてざっくりと解説したところだが、初心者さんでもよくわかる


 官兵衛 黒田庄生誕説(現西脇市)


の解説本があるのでご紹介しておこう。


 西脇市HPより


 官兵衛の里・西脇市 リーフレット
 http://www.city.nishiwaki.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/5/kurokan-syuchou.pdf


この冊子を読めば、貝原益軒の説く「近江系黒田氏」説に対して、いかに「播磨(黒田庄)黒田氏」説があながち大ハズレでもなさそうな理由がわかるというものである。


 ぜひ、興味本位で読んでみてほしい。ハマること請け合いである。



 ちなみに、西脇市黒田庄というのは、ついこの間まで「黒田庄町」というひとつの自治体であったが、平成の大合併で西脇市といっしょになってしまった。


 ガッツだぜ!でおなじみウルフルズのトータス松本氏の出身地、それが黒田庄町である。


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 そんな黒田庄&西脇市も今回の大河ドラマのせいで「官兵衛黒田庄出身説」を広めるのに気合が入っているのだが、


 家系分析官である大塚某


から見たら、ひとつだけおかしな点があることも合わせて説明しておこう。


 これまで、私の提唱する『地縁血縁解析法』によって、黒田庄と官兵衛の一族を分析にかけてみたのだが、なんと恐ろしいことに


エラー


がはじき出されてきたのである!!!なななんと。


 どういうことか。こういうことだ。


 戦国時代に某国某所に所領を持っていた一族は、現代においてもその家系において何がしかの痕跡を残しているものである。それが、「地縁血縁解析法」のベースの試料になるのだが、黒田庄においてはちょっと様子が異なるわけだ。



 どういうことか。例を挙げてみれば、赤松系図に載っていた「大塚重太夫」が住んでいたとされる地域には、現代でも大塚さんたちが居住しており、赤松幕下だった「大塚将監」が住んでいた地域には、現代でもたくさんの大塚さんたちが住んでいるわけだ。


 つまり、某国某所に所領を持っていた一族の末裔は、何らかの形で現在まで続いている、というのが可能性としてかなり高いのだが、黒田庄にはなんと


1990年ごろ~2000年代のいずれの時代でも黒田さんが1人も住んでいない


のである。これは、「地縁血縁解析」から見れば、ちょっとおかしいのである。


 もちろん、もっと早い時代に廃れてしまったとも考えられるが、黒田ほども名族が庶流・末流をふくめてその地にいないのは完全におかしい。


 つまり、ここには何か、秘められた理由があるに違いないのである!!!


 その秘められた謎とは何か。それは今後の当ブログにて解説をするので、当ブログファンのあなたは首を長くして待っていてほしい。


(つづく)


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 というわけで、本来であれば黒田氏ゆかりの黒田庄に遊びに行きたかったのだが、ちょっと日が暮れてきたので今回はパス。


 そう、先に行ったのは播磨某所にあるという「赤松氏の末裔が祀られた墓所」であった。


 今回の記事の後半は、赤松一族の、江戸期タイムスリップ編である。




 誰もしらないしられちゃいけない。播磨の某所に存在する赤松一族の墓所。ちょっとばかり外戚に当たる大塚某のかなり近しい親戚たちの墓所へお墓参りに行ってきた。


 ご生前はお世話になりました。合掌。


 写真の通り、正真正銘の赤松一族の末裔である。もちろん家紋は左三つ巴


 赤松の紋が巴紋であることを知っていると、官兵衛ちゃんがなぜ「藤巴」紋なのかの理由も一目瞭然!!!赤松氏の巴を藤にデザインしなおしたのが黒田家の家紋なのだ。


 もしかしたら長政が「藤原氏」を名乗ったのは、「赤松氏」と「藤原氏」の系統を合わせたものと解釈したからかもしれない、なんてね。




 さあ、ここからが赤松一族の江戸期の様子である。


 





 一番上は、ちょっと読みにくいが「元禄」年号が見える。そこから下は「天保」「寛保」「宝暦」と江戸年号のオンパレードである。


 順番がめちゃくちゃなのはご愛嬌。別に年代順にお墓が並んでいるわけではない。


 もっともっとたくさんのお墓があるのだが、判別の都合で割愛。歴史家系ファンにとってはたいへんに興味深い墓石群である。


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 年代順に仮並べしてみると「元禄(1688~)」「寛保(1741~)」「宝暦(1751~)「天保(1831~)という感じになる。


 ちなみに、当家大塚家にあった墓石でいえば、「正徳(1711~)」「宝暦(1751~」年間のものが現存するため、ざっくりといって概ね同時代の墓石があると言える。


 なぜそんな時代の話をするかといえば、「年号と戒名が彫られている一般民の墓石」というのは、だいたい1600年代末期ごろから登場し、それまでは自然石をおいただけの墓石が多かったからである。

 当家大塚家の場合は、1700年代前後の墓石がいくつかあり、そこからおなじ墓所にはぱったりと江戸期の墓石がなくなるという特徴がある。


 これはおそらく、宝暦以降の三潴地域久留米藩内での一揆による農政の混迷と関係あるように想像する。

 つまり、江戸中期に比較的裕福で墓石を立てられた大塚氏が、金銭上もしくは政治上の理由で墓石をつくれなくなったのではないか、という仮説である。



 一方、写真には取っていないが、この赤松氏の場合は、天保期という江戸後期の年号があることからもわかるように、墓石は文化・文政・万延・慶応など明治直前まで連続して続いている。


 つまり、江戸期を通じてこの赤松氏はある程度の隆盛を維持していた、ということに他ならない。


 いくら庶流とはいえ、中世から連綿と続く赤松の系譜を今日現在でも直接見ることができるのは、なかなか興味深いと言えよう。



 残念ながら、人力車を仕立てて里帰りをしていたという私の先祖の実家がどの墓石かまではわからなかったが、母のおばあちゃんを偲びながら両手を合わせた次第である。



(ちなみに、冒頭の赤松家の墓石は、わたしのおじさんに当たる方の一族のお墓である。前回も書いたが、母の祖母だけでなく、もっと近しいレベルでこの赤松一族とは姻戚関係がある)







 


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