2014年11月16日日曜日

<話題>織田家18代当主のインタビュー

 週刊朝日さんに、現代の織田家18代目当主さんのインタビューが掲載されているので、とても興味深いお話。


 Yahoo!ニュースさんより
 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20141116-00000001-sasahi-peo


 タイトルは

”織田家第18代当主 織田家の400年の伝統を破り、息子の名に「信」をつけず”


ということなのですが、その後の織田家の様子をうかがい知ることができる興味深い内容になっています。



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 まず 、京都市北区船岡山の建勲神社に祀られている信長のお話。

 それから福井県織田町にある剣神社が「織田家のルーツではないか?」というお話も面白い!

 織田家18代当主という、世間からみたら立派なルーツを持つ方であっても、「その先はいったいどうなっているんだろう?」と思いながら先祖探しの旅に出る、結婚式をそこで挙げるという話が考えさせられます。

 どんな家であっても、どんな子孫であっても「ご先祖様はどこから来たのか」という思いは誰にでも共通なのだな~、というところが深いです。 


 そして、子どもには「信」の通字をつけなかった、というところも興味深いです。

 織田さんがおっしゃっているとおり、「すごかったのは信長であって、家柄や血筋で判断されるのは悲しい」という部分は共感します。

 

 逆の言い方をすれば、私はいつも思うのですが、今生きている全ての人は「すべての乱世を生き延びて来た人たちの子孫」なわけですから、 その事実はとてもすごいことだと思います。


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インタビューを受けておられた柏原(かいばら)藩織田家廟所は、うちの会社で補修に参加したことがあったと思いますが、そのころはワタクシまだ歴史に興味が薄かったのであまり覚えておりません(苦笑)

 昔の上司が「えー?修理行ったやん」と言ってますが、あまり記憶がない(笑)もしかしたら、私がいまの部署に来る前の話しなのかも。

  廟所そのものは、何度も行ったことがあります。ぶっちゃけかなり古く痛んでしまっているので、「これが織田家の墓所か!」とちょっと拍子抜けしてしまうかも。

 まあ、織田柏原藩はお城すら作らせてもらえず、藩邸だけだったので、時代はすでに家康のものになってしまった、というわけですね。

 

 


3 件のコメント:

  1. インタヴュー見ました。

    >血筋や出身校などの属性で判断されてしまうのは悲しい

    (-ω-;)ウーン
    歴史ファンとしては非常に悲しいです。

    先祖の歴史を背負うのが武家の当主としての責務だから。
    でも、もう武士のいない時代ですしね・・・

    ヨーロッパのように貴族階級の総領ならば、幼少時から薫陶うけるし守るべきアレコレあるから否やはないでしょうけど・・・
    そもそも現当主の御父君が、そのように子弟を教育してないのであれば、仕方ないでしょう・・・

    ションボリ~ン (´・д・`)

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  2. 「血筋や出身校などの属性」をあまりメインに置きすぎると、封建制度下での身分を肯定したり、差別されていた人たちがいつまでも解放されないことになってしまうので、そうしたことを意識しての(現代的な)考え方なのだと思いますよ。

    >先祖の歴史を背負う

    というか先祖の歴史を受け止めながら生きてゆくというとそのものが、本当は全ての人(身分に関係なく)にとって大切なことなのでしょう。

    また、本家嫡流だけがその荷を背負わされ過ぎてきた日本のしきたりも問題点があったのではないでしょうか?

    本家嫡流だけが常に重荷と責任を負うことになれば、常に「子孫が途絶える」ことに恐怖を感じて生きてゆくことになります。(実際、武家の多くがそうなった)

    そうではなくて、もっと幅広い意味で子孫達に先祖の生き方を伝達できるような仕組みがあってもよかったでしょうね。家族・親族・一族全体でその先祖の意思を受け継ぐような「家族団・家臣団」のポジショニングが出来ていれば、封建武士の生き方も少しは変わっていたかもしれません。

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  3. そういう意味では、「苗字の成り立ち」は家族団から個々の武将への個別化が生まれた一種の近代化なのかもしれません。

    <中古>源平藤橘などの大枠で、官職や役職を大きな意味での家族団で分け合った時代。
    『平氏にあらずば人にあらず』じゃないけれど、言い換えれば「平氏」全体で権力を分散していた時代でもあります。

    <中世>元は同じ親族でもその土地の名前(苗字)を名乗り出したことで個別化した。結局親族同士で争いを始めた。小寺も別所もみんな赤松のはずなのにケンカするような。

    <近世>本家分家新宅屋などの階層がより明確になり、身分階層がおなじ親族でも固定がされるようになった。武士であれば本家だけが家格を継いで、次男以降は格が下がるみたいな。

    <現代>家族はさらに分断されて、おじいちゃn・子・孫の世代がそれぞれ独立した思想・志向で生きてゆくようになった。

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