そもそもこのブログが何のブログか忘れてしまっている
人も多いことだろうと思う。
そう、このブログは「全国の大塚さんのルーツを探る」ための研究成果を書き連ねているものである。
しかし、おっそろしいことに、既に「大塚さんネタ」よりも、官兵衛ちゃんネタのほうがアクセスが多い状況になっているため、たまーに「大塚さん情報」を新たに載っけてもほとんどスルーされているような気がする(^^;;
というわけで、もう一度声を大にして言っておこう。
このブログは、三潴地方に存在する「大塚」という苗字のルーツを探りつつ、かつ全国の「大塚」姓の由来をも(ついでに)調べようというスペクタクルな大河ブログ
なのである!
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というわけで、三潴地方に存在する当家大塚氏の状況について、おおまかなことは既に明らかになっているが、より詳しい部分でハッキリ証明できていない点もいくつかある。
久しぶりなのでまとめよう。
① うちのご先祖さまは、どうやら少弐氏から分れ出た「大塚」氏らしい。
② 少弐氏から分かれた大塚氏について、判明しているものは3系統ある。ひとつは、『歴代鎮西志』に記載のもの、ひとつは佐賀の『大塚系譜』(大塚四郎家)に記載のもの、そして『肥前旧事続編料』記載の「本庄神社と千布氏」経由のもの。
③ 天正時代にうちの村に龍造寺氏の家臣である「隠岐」なる人物がやってきたことが江戸時代の記録に残っていること。
④ この「隠岐」が『北肥戦誌』『歴代鎮西志』に記述のある「大塚隠岐(守)」ではないかと仮定すること。
⑤ 大塚隠岐の実在年代と、天正期は合致すること。
⑥ 大塚隠岐は、のちに龍造寺氏の家臣となる「神代長良」の側近であること。
⑦ 神代長良の奥さんは千布氏の家系なので、大塚隠岐は本庄神社系の大塚姓の可能性もあること。
⑧ 天正4年に神代長良の家臣として「小副川隠岐守」が存在していることから、天正4年前後に大塚隠岐は引退したか、神代側近を離れた可能性があること。
⑨ 隠岐がわが家の地域にやってくることができる年代は、おそらく天正5年~天正15年の10年間にきわめて近い期間だけであろうこと。
⑩ 天正8年の龍造寺支配地域一覧では、三潴を含む筑後地域が龍造寺の支配下におかれていること。(これも上記推測に合致する)
⑪ 隠岐は小さな構居を持っており「隠岐屋敷」と呼ばれたらしいこと。現在でも該当地域に「沖屋敷」という名前(旧小字)が残っているらしいが、現時点での正確な位置がわからないこと。
⑫ 以上のことから、隠岐は龍造寺の筑後支配における現地駐留部隊であろうと推測でき、龍造氏ならびにその後を継いだ鍋島氏が佐賀に戻ったおりに、本隊についてゆかず、合流できず筑後に残り、最終的に帰農したらしいこと。
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さあ、ここで「その時歴史が動いた!」である。
天正4年か5年か、あるいはそこらへんのどこかで三潴にやってきた、元々佐賀出身の大塚さん(ご先祖)は、どうして佐賀へ帰らなかったのか?
あるいは帰れなかったのか?
いったい、何がその時あったというのか!
それを解く鍵が、あの男なのである。そう、残り放送回数もわずかとなった、
軍師岡田官兵衛
である!!!ババーン。
ここから、ちょうどそのあたりに三潴で何があったのかを一挙タイムマシンでお届けする。
年表形式になっているので、公的な記録だけを見てゆこう。
文亀年間(1501~)蒲池治久により柳川築城
天正6年(1578) 龍造寺隆信 肥前統一。
天正8年(1580) 龍造寺隆信 筑後を支配下に。
天正9年(1581) 蒲池鎮漣滅ぶ。
天正9年(1581) 鍋島直茂 柳川入城
天正12年(1584)龍造寺隆信討たれる。
天正12年(1584)鍋島直茂 佐賀城へ移る。
天正12年(1584)龍造寺家晴 柳川入城
天正14年(1586)秀吉による九州征伐開始。
天正14年(1587) 島津軍 久留米高良山に本陣置く。
天正15年(1587)秀吉 高良山奪還 肥後まで進軍。
天正15年(1587)九州平定。龍造寺氏の筑後領没収。
天正15年(1587)龍造寺氏 肥前安堵。同年鍋島委譲
天正15年(1587)毛利秀包 久留米城築城
天正15年(1587)立花宗茂 柳川入城
慶長5年(1600) 八院合戦 鍋島が立花を下す。
慶長5年(1600) 毛利秀包 関が原西軍に付改易
慶長5年(1600) 立花宗茂 関が原西軍に付改易除封
慶長5年(1600) 田中吉政 柳川入城
元和6年(1620) 田中忠政 無嫡により改易
元和6年(1620) 立花宗茂 柳川入城(分割統治)
有馬豊氏 久留米入城(分割統治)
三潴といっても、近世カテゴリでは久留米エリアと柳川エリアがあるので、そこらへんを両方見ながらまとめてみた。
くまモン龍造寺隆信が、公式に筑後を支配下においたことがわかっているのは天正8年だが、これは8年にそうなったのではなく、8年は「そうだった」ことが資料からわかっているということである。
だから「隠岐」は天正8年にはすでに三潴当地にいたか、あるいはこの前後で「やってきた」と考えられる。おまえは、三潴のあそこを守っとけ、と言われ構居を構えたというわけだ。
また、天正9年に滅ぼした蒲池氏の代わりに鍋島直茂が柳川城に入るので「これについてきた」可能性もある。
しかし、天正12年くまモンは討たれるので、龍造寺氏はガタガタになる。ただ、可能性として龍造寺氏家晴についてきて隠岐は三潴に入った説も無理ではない。
しかし、天正14年には、官兵衛ちゃん率いる秀吉軍が九州平定にやってくるわけで、それも天正15年には平定完了、龍造寺&鍋島は早いうちから秀吉に通じていたので命だけは助かっている。
だが、天正15年の采配で、龍造寺は筑後領を失うわけで、これ以降隠岐は筑後に入れなくなってしまうのだ。
だから、隠岐が当地へやってきたと推定できるのは、天正4か5年~天正15年の約10年間しかない、ということになるのである。
そして、天正15年時点で久留米には毛利、柳川には立花がやってくる。ここで、しばらく状況は固定化されるわけである。
つまり、うちの先祖はここで、三潴の地で身動きが取れずにいることになる。
そして、迎えた九州の関が原戦。(まあ、官兵衛ちゃんが好き放題やる、これから放送されるトコだが)うちの先祖は、ここで何をどうしていたのか全くわからない。
感触では、まず、「佐賀には帰っていなさそう」である。佐賀に帰っていたら、今の私は福岡籍になっていないじゃないか。
武士だったとして、八院合戦でどちらについたかは、なんとなくわかる。恐らく鍋島側であろう。だって古巣なんだから。
しかし、実際鍋島兵として参戦した可能性は低いように感じる。龍造寺が筑後を失い、現地駐留部隊が取り残されて、13年も経っているのだ。
旧佐賀勢に柳川の様子を伝えるくらいはしたかもしれないが、現役の戦闘集団だったとはとても思えない。すでに、隠岐は三潴へ来た時点で半分隠居状態みたいな年齢だったはずだ。
つまり、この時期すでに大塚隠岐とその子は半士半農に近い状態だったと推測できる。
ここから先は、家康さまのなすがままである。田中藩政を経て有馬藩政。よくてせいぜい庄屋のような形で、小さな構居と「小さな領地」を守っていったに違いない。
その領地も、今となってはほとんど残っていない(笑)
残っているのは何か、そう少なくとも遥か昔から受け継がれているのは
大塚
の苗字だけである。
その大塚の苗字が、いったいいつから続いているのかを計算してみたのが以下の3パターンである。
<延元元年(1336)説>
歴代鎮西志より、大塚氏祖「少弐(大塚)貞衡」の生きた年代を推定する。1366年は彼の父「少弐貞経」の死んだ年なので、その時には少弐貞衡は存在したと仮定した。
この説だと678年続いている苗字ということになる。
<嘉吉元年(1441)説>
大塚系譜より、佐賀の大塚四郎さん所有の系譜によると、この年に大塚氏祖「少弐(大塚)俊氏」が三養基郡に移り「大塚」を名乗ったという。
この説だと573年続いている苗字ということに。
<永正9年(1512)説>
肥前旧事続編料によれば、この年に「大塚新右衛門藤原重家」が本庄神社の祈願を宮司別当として担当したことがわかる。
これ以前から大塚氏は存在していたようだが、いちおう確定年として計算してみよう。
この説だと502年続いている苗字ということに。
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