2014年11月11日火曜日

<95-2・特別編> すべてはあの男のムチャからはじまった。 官兵衛ちゃんと僕

 黒田官兵衛という男。その男の実像を捻じ曲げるというとんでもないムチャをした男が存在する。


 そう、誰もが知っている歴史上の人物、福岡藩に仕えた儒学者にして、江戸のブリタニカ百科事典こと「大和本草」を書いた



貝原益軒



その人である。


 科学的コレクター、研究者としての益軒には一定の評価をしたいところだが、ワタクシ大塚某の個人的感想によれば、福岡藩正史としての「黒田家譜」を書いた彼の責任は思い。


 なぜか?


 それは、一言でいえば、播磨の黒田氏を勝手に近江出身に改ざんしてしまったことに他ならない。


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 黒田官兵衛は、現代知られている通説によれば、


「近江源氏佐々木氏の庶流であり、近江国伊香郡黒田村をルーツとする黒田氏の子孫であり、官兵衛の祖父の代から播磨に来て小寺氏に仕えた」


となっている。むろん、今回の大河ドラマでも、この通説に沿った展開がなされている。


ドラマで用いられた家系はこうだ。




黒田高政 → 黒田重隆(目薬売り・竜雷太) → 黒田職隆(あぶない刑事・) → 黒田官兵衛(岡田君)




江戸幕府公式見解では、重隆からは存在したらしい(「寛永諸家系図伝」)。しかし、重隆から先祖は「中絶」とされており、よくわかっていない。

その間隙をうまくついたのが益軒であり、偽書「江原武鑑」からそれっぽい男「高政」をみつけてきてくっつけたのが益軒作「黒田家譜」だというわけなのである。


ウィキペディア 黒田氏 参照のこと
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B0%8F




ところが近年発見された、播磨国黒田庄につたわる『荘厳寺本黒田家略系図』では、伝承そのものが大きく異なっている。


 詳しいことは


黒田前史 さんのサイト
http://www.geocities.jp/kurodazensi/index.html


にめちゃんこ詳述されているが、簡単にいえば、


岡田君は、竜雷太の子


であり、



片岡鶴太郎の実子ではないかと思われる柴田恭平の養子



になったというのである。



ぶほっっ!


と思わずみなさん吹いたことと思うが、実際はこちらが正しいと考える。まじめに書けば、


黒田重隆には二人の子がいて、兄が治隆、弟が孝隆(孝高)であった。嫡男の治隆は播磨黒田本家を継いだが、滅亡。弟は、小寺職隆の養子となったので「小寺官兵衛」と名乗ったわけである。


ちなみに、官兵衛ちゃんはけっこう最後まで小寺姓で呼ばれており、一説には「黒田」に復姓したのは、長政であって、長政以降の人間が初代の威光を示すべく「黒田官兵衛」だったかのように言いふらしまくった説もあるくらいである。



 だとすれば、竜雷太の子が岡田くんで、鶴太郎の子があぶない刑事だというのはかなり顔面に無理があるのだが、そこはNHKに文句を言っていただきたい。



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 なぜ、大塚某が、黒田氏播磨黒田庄出身説を取るのかといえば、そのエリアが庭みたいなもんだからである。

 それくらい、北播磨・丹波地域の実状を肌で感じてきた大塚某だからこそ、小寺・別所といった赤松氏流の大軍団の中で、黒田氏だけがよそ者だという解釈よりは、おなじ赤松軍団の一派だとするほうがよっぽど自然だと感じるのである。


 同時に、赤松軍団の状況を、有馬・大塚ラインからずっと推定してきた当ブログの読者であれば、黒田氏がいかに播磨に根付いているか(それが赤松由来のルートであるということ)はすぐに納得していただけるに違いない。


 大河ドラマだけ見ていると、播磨は小寺と龍野赤松と別所しかいないみたいに見えていたが、そんなことはない。


 有馬や宇野といった血脈メンバーをはじめ、浦上・播磨後藤(又兵衛の先祖)・新免(武蔵の先祖)など、地元の赤松家臣メンバーもうようよしている播磨である。


 そうである。北部九州の覇者と言えば少弐氏であるように、播磨周辺(丹波・美作も含めて)といえば赤松氏なのである。


 官兵衛ちゃんは、血脈の上でも、家系の上でも紛れもなき「赤松氏流」に他ならない!




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 ☆注意☆


 ちなみに、赤松系だとすれば当ブログでおなじみの「村上源氏」なのだが、あのアホ息子はどうしてか「藤原氏」を名乗っている記録がある。


 アホ息子=長政


 しかし、いずれにしても近江源氏佐々木氏との益軒家系図とは合致しない。ここは歴史の謎。




2 件のコメント:

  1. >かなり顔面に無理があるのだが

    ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
    す・・すいません・・・ちと腹筋に笑激が走りましたwww

    大塚さまの知識には、到底及びませんが、黒田官兵衛に兄がいて、兄を差し置いて家督を継いだって書かれたサイトは、チラチラ見かけた事がありました。

    ほんとに大河の播磨史は端折りまくってましたね。
    自分、元々詳しくないのに大河で端折りまくるから、前半の話の流れに時々おいてきぼりに遭ってました^^;
    総集編で、もう一回見直さないと~~~~ヽ(。_゜)ノ ワカランチン

    話戻って、数年前くらいまでネット上で長政には障害ある兄がいて、朝鮮の役で出陣しようとして水死したって話が出てたんです。
    それが大河に出てた長政の弟のことみたい(死因が一緒だから)

    ウィキペディア黒田関連に熊之助が記載されたり、数年前まで項目がなかった糸姫が出来てたり、大河効果パネェっ!!
    5~6年前に自分が黒田長政をブログ記事にした時とは、雲泥の差の情報量で何だか目から汗がジワンとくるわぁ~~

    大元は黒田家譜だから、一番パネぇのは養生訓の人だけど^^
    こないだ2諭吉で筑前国続風土記じゃなくて、間違って同じ風土記だけど著者違いの拾遺の方を買っちゃって悶絶撃沈したっす(´・д・`)

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  2. いえいえ、私の知識はすべて「聞きかじり」ですのでたいしたことはありません(^^;;

    そもそも、日本史の話はすべて「見たんか?」レベルですので。でもそれを紐解いてゆくのが歴史の醍醐味ですね!

    長政の兄・弟の話、異説が気になりますね~。調べてみたいところ。

    貝原益軒が仕えたのは2代忠之ですから、実際には官兵衛も長政も知らない世代の人です。当人たちに出会ってもいないので、やはりいろんなバイアスがかかってしまうのは仕方ないのかも。

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