当ブログの<96・特別編>で話題に取り上げたのは、今をときめくNHK大河ドラマの主人公「黒田官兵衛」が播磨国黒田庄にルーツがあるのではないか説であった。
前回はこちら
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/11/blog-post_15.html
福岡藩の公式歴史書である「黒田家譜」で「近江出身」とされている黒田氏が、いったいどうして「播磨出身」となるのかについては、既に先人のいろいろな考察があるので、それはそちらに任せようと思う。
しかしながら、独自の家系研究法で一世を風靡していない大塚某のことなので、ここは独自調査をしなくてはなるまい、とさっそく
黒田氏と黒田庄の関係
について分析を試みることにした。
大塚某が駆使する「地縁血縁解析法」は、基本的に「現在の苗字分布」と「過去の歴史上存在した苗字」との関係を分析するものである。
これまで、当ブログで実際にやってみせた実例として
「大塚重太夫」の住んでいた地区に現在でも大塚さんがやたら住んでいる
とか
「大塚将監(後藤将監)」の住んでいた地区に現在でも大塚さんと後藤さんの末裔が住んでいる
という事実等をお知らせしてきている。
これ以外にも、概ね戦国前後の「砦・館・城・構居」などがある地域には、その城主の子孫と思われる苗字が実際に残っているのが大半である。
ところが、である。
この公式で言えば、播磨黒田庄と黒田氏の関係は、分析してみるとエラーとなるのだ。
簡単に言えば、黒田庄地域には「黒田さん」が住んでいないのである。全くもって1人も!
別に、黒田さんが住んでいるからといって「彼らが黒田官兵衛の一族の末裔」だなんて断定的なもの言いはするつもりもない。
いやいや、土地名の「黒田」を取って明治新姓で「黒田」姓を名乗った家があってもよいのだから、もうちょっと普遍的な意味で
黒田さんがいてもおかしくない
ではないか。
しかし、現実に黒田庄近辺に現存する黒田さんはいない。だとすれば考えられる事実は、いったいどういうことなのだろうか。
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2001年版ゼンリン住宅地図により、黒田地域周辺をくまなく調査した結果、この地域に黒田さんは現存しない、ということがまず事実である。
該当地域の姓としては、軽く伏せておくが「F原さん」「M脇さん」「O西さん」「OK戸」さんなどがある一定数の分布で見ることができる。
ちなみに、荘厳寺本黒田系図の奉納者は「K岡嘉作孔美」なる人物で、K岡氏は、この地にあった比延城主の子孫であり、比延氏はそもそも赤松氏の末流で比延氏-黒田氏の間では婚姻関係が継続していたため、K岡氏が黒田氏の系図を持っていた、ということになっている。
そこで、1989年版ゼンリン住宅地図により、現在西脇市になっている比延町周辺を調査したところ、こちらには「K岡さん」が多数存在していることが判明したのである。
比延城下には、子孫K岡氏が多数存在している。これも合わせて覚えておきたい事実である。
こうしてみると、比延城下のK岡氏についてはエラーとならず、黒田城下の黒田氏についてエラーとなるわけだが、考えてみれば、比延城に「比延さん」は現存しないのだから、仮説を立てることができそうである。
<仮説1>
黒田庄の黒田子孫は苗字を変えているのではないか?
赤松→(本郷)→比延→K岡
という苗字の変更のように、戦国期「黒田」であった一族が、現在別の名前になっている可能性は、ないわけではない。
しかし、そもそも福岡藩黒田氏の出身が黒田庄であることすら、近年ようやく発見された情報なのであるから、
「うちは昔黒田でした」
という近隣の別の苗字の方がいらっしゃるかどうかは、よほどのことがないと発見されない、と思われる。
<仮説2>
黒田城は、荘厳寺本によれば官兵衛の兄の時点で滅亡したことになっている。だとすれば、現地の黒田氏は、本当に絶えてしまったのでは?
(あるいは、筑前系黒田氏へ合流したのでは?)
地縁血縁解析法から見れば、実はそういうことは少なく、なんらかの形で該当の苗字の痕跡があることが多い。しかし、他の苗字において、滅亡もしくは移動という事例がないわけではないので、この仮説も捨ててしまうわけにはいかない。
<仮説3>
その他のミステリー(特別な事情)があるのではないか?
さあ、ここからは空想の物語である。黒田庄黒田氏が姿を消してしまった理由の3番目として、ちょっと気になる事実がこの地にあることを紹介しておきたい。
実は黒田地域には、隠れキリシタンのものと思われる「十字架が描かれた地蔵」が現存する。こうしたキリシタンの遺物は、おなじ播磨地方では加西市などでは多数みられるのだが、黒田地域で1体だけ残っているキリシタン地蔵は、この地に「隠れキリシタン」が存在した証ということになる。
キリシタン大名、黒田官兵衛=出身地黒田に残るキリシタン地蔵、この奇妙な点と線は、単なる播磨に残るキリシタンの遺跡というだけで説明してよいものであろうか?
あるいは、当地に黒田姓が現存しない理由に、「黒田系庶子に伝達された、キリシタン信仰の弾圧」と何か関係あるのではないか、と考えるのはけして荒唐無稽なものではないと思うのだがいかがだろうか。
ちなみに、みんなが知っているあの
ザビエルの絵
は、大阪府茨木市の隠れキリシタンが持っていた開かずの箱の中から、大正9年(1919年)に見つかったのだが、キリシタン末裔の民家の屋根裏にくくりつけてあったものだという。
ウィキペディアより 茨木市立キリシタン遺物史料館
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%A8%E6%9C%A8%E5%B8%82%E7%AB%8B%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E9%81%BA%E7%89%A9%E5%8F%B2%E6%96%99%E9%A4%A8
大正9年!戦国時代からみれば、つい最近のことである。それくらい、戦国キリシタンの実像は、未だに明らかになっていないことが多いのだ!
というわけで、謎が謎を呼ぶ黒田官兵衛ちゃんの秘められた裏歴史。
播磨の黒田氏子孫の方がいたら、ぜひご連絡いただきたい!!!
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