2014年6月9日月曜日

<71-4>大団円に向けて ~伝説の男、龍造寺隆信~

 龍造寺隆信という男は、一言で言えば、「波乱万丈」の生涯を生きた人物であるという。

 あるいは、その生き方をもって「勇猛果敢」でありながら「冷酷非情」であるともいう。


 人は彼のことを「肥前の熊」と呼んだ。



 ちなみに、最近、「体操」を踊ったり、各地のイベントに出没したり、「サプライズ」運動に励んでいる例の彼がいるが、人は彼のことを


「肥後のくまモン」


と呼んでいる。 もちろん、全くの無関係である。



(※注 肥前=佐賀  肥後=熊本)


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 さて、本気で龍造寺氏のことを語れば、おそらくこのブログの最初から最後までくらいの「一大長編」になることは間違いないので、そこらへんは他のマニアの方々のサイト等を参考にしていただくとして、ここではざっくりとまとめてしまいたい。


 とにかく、龍造寺隆信という人物に集約される龍造寺氏は、佐賀の地頭職からはじまり戦国武将へとのし上がった。

 最盛期には肥筑地方を一手に制圧した「なり上がり」を絵に描いたような人物であり、それゆえに「なんでもあり」なエピソードに溢れている。


 恩人の子を殺す

 一族郎党皆殺し

 幼い子供を磔(はりつけ)

 デブくて馬に乗れない

 死んだ後の首を家臣が「いりません」と断った

 
などなど。



 そして、龍造寺最大にして、彼を自滅に追いやった最悪の悪行として挙げたいのが、


「実の娘の夫を殺す」


という


蒲池鎮漣殺人事件


である。


 この事件が、あるいは直接・間接的にわが大塚家のご先祖さまと繋がることになろうとは、知る由もない大塚某であったが、どうやら、事態はその事件へと一直線に進んでいるかのごとくである。




 押さえておきたいのは、位置関係だ。


 戦国時代、基本的に龍造寺氏は、佐賀を本拠地としている。そして、久留米や三潴をはじめとした筑後地方は、当時の柳川城を拠点とした「蒲池氏」が支配していると覚えておきたい。


 ちなみに蒲池氏の子孫が松田聖子さんであることは、九州歴史マニアであれば「全員が知っている」ところである。


 ついでに、その娘さんである、神田沙也加さんが世界的大ヒットを飛ばしている


 アナと雪の女王


に絶賛吹き替え中であることはご存知の通りである。(だからなんなんだ)



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 さて、龍造寺隆信は、以前に佐賀を追われてボロボロだったとき、佐賀から筑後に逃げてきて蒲池氏にかくまってもらった。その縁で自分の娘を「蒲池鎮漣」という武将と結婚させ、蒲池氏と同盟を組んでいたのである。


 しかし、そこは極悪非道な隆信である。ついでにいっそ筑後を乗っ取ってやるとばかりに、謀略をもって蒲池鎮漣を佐賀に誘い出しては殺してしまったのである。


 呼び出された時、隆信の娘である鎮漣の妻「玉鶴姫」は、「これは絶対あの親父の策略だから、あなた行ってはだめ!」と制したのだが、鎮漣はそれをわかっていて行ってしまった。


 この「玉鶴姫」はなかなかの女性で、

「わたしは蒲池に嫁いだ以上、いくら実の父とはいえ、龍造寺には従いません」

と頑なに父親に反抗し、ついに柳川塩塚城にて108人の従者とともに龍造寺勢に攻められ、打ち殺されてしまったというのである。

(西鉄塩塚駅からほど近く、「百八人塚」なる供養塔が現在もあるという)



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 この事件の後、ただでさえ「ろくでもない」主君にビビッていた龍造寺氏の家臣団は、一気に「いくらなんでも親分はやりすぎだ」と忠誠心を失い、家臣の団結がほころんでいったとされている。


 隆信の最後は、敵に囲まれても部下が「隆信をほったらかしにして逃げた」だの、最愛の部下であった鍋島氏に「首は別にいりません」と突き返されただの、これまた最低なエピソードだらけである。


 そんな龍造寺氏であったから、蒲池鎮漣の事件のあと、離反するものも多々あったのだろう。


そこで、前回の話に戻るのである。


X寺の創建者であるR和尚は、元々は龍造寺家臣の武将であったという。ところが蒲池事件のあと、鎮漣と玉鶴姫のことを思って出家し、その供養としてX寺を建てたというのである。


 そういう由来を持っているのが、我が家の菩提寺なのである。


そして、もっと不可思議なことに、我が大塚家のある地域には、この他にも

「龍造寺氏」に関する別な伝承が残っていることがわかったのだ。



(この章つづく)



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