それは、・・・そう。家紋、家紋である。
そもそも振り返ってみると、このブログの本来の目的は、「抱き茗荷の大塚氏は赤松氏流なのではないか?!」というところにあったはずだ。
しかし、そんな話は、いつの間にか吹き飛んでしまっているのだが、いやいや忘れてはいけない。
我が家の家紋は「抱き茗荷」である。そこに、どんな秘密が隠されているのか、明らかにしてみよう。
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”佐賀の殿様は『抱き茗荷』やもんね”
という言葉が、佐賀地方ではよく口にされるという。ここにすべてのヒントがあるのだ。
佐賀の殿様、つまり佐賀藩を治めた鍋島氏は
こんな家紋を用いる。葉脈のついている「抱き杏葉」である「鍋島杏葉」である。
この家紋をみて、佐賀の人は「抱き茗荷」だと呼ぶのだ。
さて、この家紋になったのには理由がある。既にこのブログでもお伝えしているが、鍋島信生が、大友氏の家紋を見て、
「やっべ、まぢいけてんじゃん。あれ、ほしくない?」
といいながら、大友氏から奪った家紋なのである。
では、その大友氏の家紋とはどんなのか。
こんなのである。 これが、どノーマルな「抱き杏葉」であーる。
この家紋を見て、江戸時代中期の佐賀藩士「北肥戦誌の著者、馬渡俊継」は
茗荷丸
だと書いた。ちなみに、大友氏から直接奪ったのは鍋島信生だが、彼は龍造寺氏の不動のセンターだったので、このとき、龍造寺氏も同じ「抱き杏葉」を家紋とした。
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以上のように、江戸期から現代に至るまで、「抱き杏葉」と「抱き茗荷」は混同されていることがわかる。
他の事例として、たとえば
ウィキペディアより 熊懐氏
では、大友「抱き杏葉」から転じて、いつの間にか「抱き茗荷」が家紋になっている実例が挙がっている。
また、浄土宗の宗祖「法然上人」は大友氏の出であり、浄土宗紋は「抱き杏葉」であるが、
simmel20の日記 さんのブログより
にもある通り、寺院の中にも「抱き杏葉」と「抱き茗荷」を混同している例が絶えない。
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さて、当家の「家紋のデザイン」を確認できる最古の墓碑は「昭和9年」のものである。そのデザインをもって私は「我が家の家紋は抱き茗荷」だとしてきたが、
もしかしたら、古来は「抱き杏葉」であった
かもしれないと考える。
それも、誤りがあったとしても、佐賀藩の馬渡俊継の件でわかるとおり、
下手すると、江戸中期から間違って描いている可能性だってある
と考えられるのだ。
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結論はこうだ。
当家の「抱き茗荷」は、「龍造寺氏の一門に属した」ことを表しており、それは「古賀伊豆や隠岐」が当地に定着した件と合致する。
もし万一「隠岐」が「大塚隠岐」ではなかったとしても、私の祖先は、その一族もしくはその家臣に属する者であったことは、かなりの高確率で間違いない。
その傍証となる事実がある。
実は私の祖先が属する村の墓地・納骨堂を調査したおり、せまいムラの中で、「大塚・益田・吉田」姓の3家がおなじ「抱き茗荷」を使っていることが判明している。
この3家は、いずれも、隠岐や古賀伊豆の家人・家臣であると推定しても、それほど外してはいないと思われる。
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いやはや、はてさて、しかしまあ、なんですねえ。
今頃こんなことを言うのはどうかと思うが。
赤松氏は、どこへいったんじゃーーーーーーーい!
(ごめんね。あんまり関係なかったみたい)
これにて、一件落着。めでてえな。
うちの家紋も言い伝えでは抱き茗荷と言われてきて、そう信じていた。 ある時墓石の写真を撮ってきてじっくりみてたら、花が入ってることに気がつき、親戚の墓石の家紋を調べてもらっても全て花が入っているので、抱き花杏葉だと判明した。 大友家からもらった紋なので花杏葉で間違いない。
返信削除龍造寺も花杏葉紋を使った時があるので注意すべき。