2014年6月14日土曜日

<71-8>大団円に向けて ~『抱き茗荷』の謎を解け!~

 さて、わが一族の先祖が「大塚隠岐守」なのではないか?と推定したところで、いよいよ最後の問題、とやらが残っているので、それを解決しよう。

 
 それは、・・・そう。家紋、家紋である。

 

 そもそも振り返ってみると、このブログの本来の目的は、「抱き茗荷の大塚氏は赤松氏流なのではないか?!」というところにあったはずだ。


 しかし、そんな話は、いつの間にか吹き飛んでしまっているのだが、いやいや忘れてはいけない


 我が家の家紋は「抱き茗荷」である。そこに、どんな秘密が隠されているのか、明らかにしてみよう。


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 ”佐賀の殿様は『抱き茗荷』やもんね”


という言葉が、佐賀地方ではよく口にされるという。ここにすべてのヒントがあるのだ。


 佐賀の殿様、つまり佐賀藩を治めた鍋島氏は


 こんな家紋を用いる。葉脈のついている「抱き杏葉」である「鍋島杏葉」である。


この家紋をみて、佐賀の人は「抱き茗荷」だと呼ぶのだ。


 さて、この家紋になったのには理由がある。既にこのブログでもお伝えしているが、鍋島信生が、大友氏の家紋を見て、

「やっべ、まぢいけてんじゃん。あれ、ほしくない?」

といいながら、大友氏から奪った家紋なのである。

 では、その大友氏の家紋とはどんなのか。




 こんなのである。 これが、どノーマルな「抱き杏葉」であーる。


 この家紋を見て、江戸時代中期の佐賀藩士「北肥戦誌の著者、馬渡俊継」は


 茗荷丸


だと書いた。ちなみに、大友氏から直接奪ったのは鍋島信生だが、彼は龍造寺氏の不動のセンターだったので、このとき、龍造寺氏も同じ「抱き杏葉」を家紋とした。



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 以上のように、江戸期から現代に至るまで、「抱き杏葉」と「抱き茗荷」は混同されていることがわかる。

 
 他の事例として、たとえば


 ウィキペディアより 熊懐氏



では、大友「抱き杏葉」から転じて、いつの間にか「抱き茗荷」が家紋になっている実例が挙がっている。



 また、浄土宗の宗祖「法然上人」は大友氏の出であり、浄土宗紋は「抱き杏葉」であるが、



 simmel20の日記 さんのブログより



にもある通り、寺院の中にも「抱き杏葉」と「抱き茗荷」を混同している例が絶えない。




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 さて、当家の「家紋のデザイン」を確認できる最古の墓碑は「昭和9年」のものである。そのデザインをもって私は「我が家の家紋は抱き茗荷」だとしてきたが、


 もしかしたら、古来は「抱き杏葉」であった


かもしれないと考える。


 それも、誤りがあったとしても、佐賀藩の馬渡俊継の件でわかるとおり、


下手すると、江戸中期から間違って描いている可能性だってある


と考えられるのだ。



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 結論はこうだ。


 当家の「抱き茗荷」は、「龍造寺氏の一門に属した」ことを表しており、それは「古賀伊豆や隠岐」が当地に定着した件と合致する。

 もし万一「隠岐」が「大塚隠岐」ではなかったとしても、私の祖先は、その一族もしくはその家臣に属する者であったことは、かなりの高確率で間違いない。



 その傍証となる事実がある。


 実は私の祖先が属する村の墓地・納骨堂を調査したおり、せまいムラの中で、「大塚・益田・吉田」姓の3家がおなじ「抱き茗荷」を使っていることが判明している。

 この3家は、いずれも、隠岐や古賀伊豆の家人・家臣であると推定しても、それほど外してはいないと思われる。


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 いやはや、はてさて、しかしまあ、なんですねえ。

 今頃こんなことを言うのはどうかと思うが。


赤松氏は、どこへいったんじゃーーーーーーーい!


(ごめんね。あんまり関係なかったみたい)



 これにて、一件落着。めでてえな。


1 件のコメント:

  1. うちの家紋も言い伝えでは抱き茗荷と言われてきて、そう信じていた。 ある時墓石の写真を撮ってきてじっくりみてたら、花が入ってることに気がつき、親戚の墓石の家紋を調べてもらっても全て花が入っているので、抱き花杏葉だと判明した。 大友家からもらった紋なので花杏葉で間違いない。
    龍造寺も花杏葉紋を使った時があるので注意すべき。

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