2014年6月15日日曜日

<73>『歴代鎮西志』を読む

 当ブログの第<65>~<67>回で調査した『北肥戦誌』であるが、実は九州戦国時代の様相を記した「兄弟本」のような資料がもうひとつある。

 それが『歴代鎮西志』であり、 佐賀藩士「犬塚六郎兵衛盛純」が元禄年間に佐賀藩に献上し、鍋島家に秘蔵されてきた幻の本である。

 北肥戦誌が、人物出来事を軸に描写し、歴代鎮西志が時間を軸に描写しているのは、まるで「紀伝体の古事記」と「編年体の日本書紀」のようでもある。


 その「歴代鎮西志」にも、大塚隠岐は登場する。それも、隠岐守ではなく「大塚隠岐」という表記で。

 登場する箇所は北肥戦誌とまったくおなじで、

 「神代長良が龍作寺に攻められ自害しようとしたとき」

であり、歴代鎮西志でも、長良は家臣たちに切腹を止められ無事に千布城を脱出する。


 さて、その時、長良の妻が城に取り残されていたので、その妻を守る形で城に残ったメンバーに「大塚隠岐」の名前が挙がる。

 大塚隠岐の名前がでてくるのはこの時だけだが、長良の妻はこのあと別ルートで城の脱出に成功、しばらく身を隠したのち、最後に長良と再会できるので、



 大塚隠岐は、長良の妻と行動し、脱出


したと考えることができる。



 これが1565年のことであり、神代長良はその後大友氏を一時頼り、最終的には龍造寺と和睦しその家臣となる。

 「隠岐」が当村に来たのは天正5年(1577)から天正15年(1587)の間なので、最短で千布城脱出から12年だが、その間大塚隠岐の記録が全くないとなれば、天正9年(1581)の神代長良死去(病死)のちに引退蟄居したのかもしれない。


 以上補足として書き加えておく。



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