当ブログの第<65>~<67>回で調査した『北肥戦誌』であるが、実は九州戦国時代の様相を記した「兄弟本」のような資料がもうひとつある。
それが『歴代鎮西志』であり、 佐賀藩士「犬塚六郎兵衛盛純」が元禄年間に佐賀藩に献上し、鍋島家に秘蔵されてきた幻の本である。
北肥戦誌が、人物出来事を軸に描写し、歴代鎮西志が時間を軸に描写しているのは、まるで「紀伝体の古事記」と「編年体の日本書紀」のようでもある。
その「歴代鎮西志」にも、大塚隠岐は登場する。それも、隠岐守ではなく「大塚隠岐」という表記で。
登場する箇所は北肥戦誌とまったくおなじで、
「神代長良が龍作寺に攻められ自害しようとしたとき」
であり、歴代鎮西志でも、長良は家臣たちに切腹を止められ無事に千布城を脱出する。
さて、その時、長良の妻が城に取り残されていたので、その妻を守る形で城に残ったメンバーに「大塚隠岐」の名前が挙がる。
大塚隠岐の名前がでてくるのはこの時だけだが、長良の妻はこのあと別ルートで城の脱出に成功、しばらく身を隠したのち、最後に長良と再会できるので、
大塚隠岐は、長良の妻と行動し、脱出
したと考えることができる。
これが1565年のことであり、神代長良はその後大友氏を一時頼り、最終的には龍造寺と和睦しその家臣となる。
「隠岐」が当村に来たのは天正5年(1577)から天正15年(1587)の間なので、最短で千布城脱出から12年だが、その間大塚隠岐の記録が全くないとなれば、天正9年(1581)の神代長良死去(病死)のちに引退蟄居したのかもしれない。
以上補足として書き加えておく。
0 件のコメント:
コメントを投稿