そう日本が誇る野球人の中の野球人「長嶋茂雄」その人である。
ついでに、サッカーで「キング」といえば「カズ」である。
おまけにサッカーで「神様」といえば「ペレ」でもある。
そして何より、「不動のセンター」といえば、「前田敦子」なのである!
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冒頭からなんのこっちゃ、と思われる方が多数おられると思うが、今見たように、「称号」や「愛称」というのは、もともとは誰に対して呼んでもおかしくないはずのものが
特定の人の代名詞
になることは現代でもよくあることだ、ということを示したかったのだ。
なぜ、そんな話が重要なのか、といえば、そう、前々回から引き続きお届けしている「隠岐」なる人物が、かなり驚愕なのである。
日本には歴史マニアとか暦女(れきじょ)なる人たちがたくさんいると思うが、その人たちに今回の話をすると、一様に「ちょっとおもしろいね」あるいは、「それはちょっと奇妙だ」と首をかしげるに違いない。
それはつまり、
「背番号3といえば、阪神の関本」
とか
「あっちゃんは一度総選挙で負けてるから、やっぱり大島優子なんじゃね」
とか、そういう話が出てきて「おいおいおい、それはちょっと変やろ」とチャチャが入るような話なのだ。
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もとい。
今回のテーマは「隠岐」である。
わが大塚家のある地域に、その昔、龍造寺家臣の「隠岐」なる人物が住んだらしいという話を前回紹介したところだが、これだけ聞くと、歴史マニアの諸君は
「それはおかしいな」とか「それはおもしろいな」と、首をひねる
に違いない状況なのである。
「隠岐」という言葉は、ふつうに考えれば名前ではない。それはおそらく官位で、前回出てきた「古賀伊豆」は「古賀伊豆守」であり、「隠岐」は「ほにゃらら隠岐守」と呼ばれた人物だと考えられる。
豊臣秀吉でいうところの「羽柴筑前守」であり、彼が「ちくぜん」と呼ばれるシーンを思い浮かべてもらえばわかりやすいだろう。
さて、その隠岐守が変なのだ。
なぜか?龍造寺ときて「隠岐」といえば、冒頭の背番号3番ではないが、
隠岐守の位は、龍造寺本家の宗家代々が名乗る定番
だからである。
おかしいでしょ?龍造寺の家臣の「隠岐」なんて。それは本来「龍造寺本家本元の長男」を意味するのだから、龍造寺の家臣が「隠岐」なんて名乗ること自体がおかしいわけだ。
うそだと思ったら、ウィキペディアで見て欲しい。
ウィキペディアより龍造寺家氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%80%A0%E5%AF%BA%E5%AE%B6%E6%B0%8F
右の方に「官位」が載っているので、「隠岐守」になっていることがわかるはずである。
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この謎を解くには、いわゆる「□□守」などの官位について知っておく必要がある。もちろん、本来の官位は「朝廷から贈られる」ものである。
「筑前守」は筑前国の守護を任命されたものが拝命する官位というわけだ。
しかし、戦国の世には朝廷の権力は実際には無力に等しかったため、時の実力者が、部下に勝手に官位を与えることが横行した。
「羽柴筑前守」とは、信長が秀吉に勝手に与えた官位である。しかし、そこはホレ。天下人の信長のことだから、事前申請ができなくても、
事後承認でも、あとからなんぼでも朝廷に追認させてやるわ!
と考えていたわけで。
そんな訳で、朝廷の追認は別にしても、戦国武将が勝手に官位を部下に与えることは、当たり前のように当時行われていた。
ということは、我が村にやってきた「隠岐」という人物が、龍造寺氏当主その人でない限り、ふつうに考えれば、その人物は龍造寺氏以前から別の武将に仕えており、その武将から「隠岐」の官位を拝領していたので、そのまま使っていた、と推理することができるわけである。
では、当時どんな「隠岐」なる人物がいたのか。
そこで、調べてみると、北肥戦誌にはさらに興味深い記述があった!
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北肥戦誌に登場する「隠岐」の名を持つものは、以下の通りである。
■ 小田隠岐入道覚一 ……蒲池氏の家臣
■ 大塚隠岐守 ……神代氏の家臣
■ 長野隠岐入道 ……大友氏の家臣
■ 龍造寺隠岐守家和 ……歴代龍造寺当主
■ 龍造寺隠岐守家氏
■ 龍造寺隠岐守康家
■ 龍造寺隠岐守家久
前述したとおり、龍造寺の本家当主は、代々「隠岐守」を名乗っている。
そして、何より、「大塚隠岐守」が存在していることが、果たして偶然の一致なのであろうか!
(いいところで、この章つづく)
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