当家のお墓に存在する、2つの宗派の戒名の刻まれた墓。
それはどうやら、正徳~宝暦期のどこかで、わがご先祖様の所属した寺に何か事情があった、ということを推測させる。
しかし、そんな事情が本当にあったのか?!
2つの寺を巡るミステリー不思議発見!の続きがいよいよ始まる。
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当大塚家の所属する三潴地方のお寺の名前を仮にX寺とする。X寺は浄土真宗大谷派の寺で、久留米藩においては藩主がある時期に「真宗本願寺派」を全て追い出すという「いけず」をしたために、管内には「本願寺派のお寺」は存在しないのだが、それはまた別のお話。
当家の所属するX寺は、「天正年間」(1500年代)に創立した、戦国時代末期からの寺である。しかし、興味深いことに、江戸時代初期に久留米藩が収集した領内の「寺社のリスト」には
載っていない
のである。これは私がその資料を確認したので間違いない。一部の翻刻資料には誤ってX寺が存在するかのような記載があるものもあるが、それは誤植で、原典に当たると
Y寺
という別の名前が載っている。
そして、そのX寺が江戸時代初期にそこに存在しない理由について「三潴郡誌」には詳細が載っていないのだが、別のとある資料にだけ
X寺は創建場所は別のところで、(明確ではないが)創建から△00年ぐらいして移動した
という旨が記載されていたのである。
そして、これまた超マイナーな某資料に、”X寺を創建したR和尚(もしくは同名の人物)が、Y寺のお堂を修理した”ことが記録に残っていたのだ。
お堂を直してからしばらくして書かれたのが、先に紹介した久留米藩の資料なのだが、この時にはまだX寺は別のところにあるか、もしくはその名前では存在していない。
そして、久留米藩の資料からしばらくして、当家のお墓がある「正徳3年」を迎えることになり、つまり正徳3年の時点では、「X寺」はまだ当家の地域には来ていないことがわかったのである。
しかし、もともとY寺もR和尚が出入りするくらいなのでおなじ「浄土真宗大谷派」の寺院であった。それなのに、当家の正徳期のお墓が「浄土宗」戒名であるということは、
久留米藩資料が作成されてすぐに、Y寺が失われた
ということ以外には考えられない。
そして、宝暦期には「浄土真宗」の戒名になっているので、この時にX寺はY寺跡に移転してきたのであろう、と推理できるわけだ。
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それにしても、寺があったりなかったりしたということぐらい、「まあ、そんなことがあったんだね」で済みそうなものだが、そうではない。
ここから先は、さらにディープな話になるが、実はR和尚というのは、もともと
龍造寺の配下の武士であり、それが”ある事件”のせいでこの世を儚んで出家した
という経歴の持ち主であることがわかったのだ。
この事件。単なる歴史の一ページかと思いきや、これが私のご先祖様に繋がるかもしれないとは、このときはまだ思いもよらなかった。
さあ、その事件とは一体なんなのか?!そして、事件と大塚家の関係とは?!
まて次回!
(この章さらに続く)
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