2014年6月8日日曜日

<71-3>大団円に向けて ~三潴『存在しない寺』の謎を追え~

 当家のお墓に存在する、2つの宗派の戒名の刻まれた墓。

 それはどうやら、正徳~宝暦期のどこかで、わがご先祖様の所属した寺に何か事情があった、ということを推測させる。

 しかし、そんな事情が本当にあったのか?!


 2つの寺を巡るミステリー不思議発見!の続きがいよいよ始まる。



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 当大塚家の所属する三潴地方のお寺の名前を仮にX寺とする。X寺は浄土真宗大谷派の寺で、久留米藩においては藩主がある時期に「真宗本願寺派」を全て追い出すという「いけず」をしたために、管内には「本願寺派のお寺」は存在しないのだが、それはまた別のお話。


 当家の所属するX寺は、「天正年間」(1500年代)に創立した、戦国時代末期からの寺である。しかし、興味深いことに、江戸時代初期に久留米藩が収集した領内の「寺社のリスト」には


載っていない


のである。これは私がその資料を確認したので間違いない。一部の翻刻資料には誤ってX寺が存在するかのような記載があるものもあるが、それは誤植で、原典に当たると

Y寺

という別の名前が載っている。


 そして、そのX寺が江戸時代初期にそこに存在しない理由について「三潴郡誌」には詳細が載っていないのだが、別のとある資料にだけ


X寺は創建場所は別のところで、(明確ではないが)創建から△00年ぐらいして移動した


という旨が記載されていたのである。


 そして、これまた超マイナーな某資料に、”X寺を創建したR和尚(もしくは同名の人物)が、Y寺のお堂を修理した”ことが記録に残っていたのだ。


 お堂を直してからしばらくして書かれたのが、先に紹介した久留米藩の資料なのだが、この時にはまだX寺は別のところにあるか、もしくはその名前では存在していない。

 そして、久留米藩の資料からしばらくして、当家のお墓がある「正徳3年」を迎えることになり、つまり正徳3年の時点では、「X寺」はまだ当家の地域には来ていないことがわかったのである。



しかし、もともとY寺もR和尚が出入りするくらいなのでおなじ「浄土真宗大谷派」の寺院であった。それなのに、当家の正徳期のお墓が「浄土宗」戒名であるということは、


久留米藩資料が作成されてすぐに、Y寺が失われた


ということ以外には考えられない。


 そして、宝暦期には「浄土真宗」の戒名になっているので、この時にX寺はY寺跡に移転してきたのであろう、と推理できるわけだ。



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 それにしても、寺があったりなかったりしたということぐらい、「まあ、そんなことがあったんだね」で済みそうなものだが、そうではない。

 ここから先は、さらにディープな話になるが、実はR和尚というのは、もともと


龍造寺の配下の武士であり、それが”ある事件”のせいでこの世を儚んで出家した


という経歴の持ち主であることがわかったのだ。



 この事件。単なる歴史の一ページかと思いきや、これが私のご先祖様に繋がるかもしれないとは、このときはまだ思いもよらなかった。

 

 さあ、その事件とは一体なんなのか?!そして、事件と大塚家の関係とは?!



 まて次回!


(この章さらに続く)








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