2014年6月10日火曜日

<71-5>大団円に向けて ~謎の人物『隠岐』とは何者か~

 前回は、わが三潴大塚家の菩提寺が、九州最恐の戦国武将、「龍造寺隆信」の起こした事件に関係があるらしい、というところまでお伝えした。

 さて、本来、三潴郡という地域は、前回も地理関係をおさらいしたが、「佐賀の龍造寺」の支配地域ではない。

三潴地域は、歴史的に見ると、あんなことやこんなことがあるのだが、ざっくり言えば


西牟田氏 → 大友氏 → 蒲池氏


の順に力のあるものが順次支配してきたと言える。


 もちろん、柳川に拠点を持った蒲池氏ですら、その先祖は、「佐賀の松浦党」だというから、筑後と肥前の関係は、実に密接であることは否めない。



 しかし、とりあえず、「三潴はもともと大友氏の支配下にあった蒲池氏が押さえている」ということは、覚えておきたい。

 そこへ、いちおう同盟の関係で力を伸ばしてきたのが、佐賀龍造寺氏であった。

 しかし、ご承知のとおり、龍造寺氏と蒲池氏の関係は、先の「蒲池鎮漣殺人事件」をもって崩壊してゆく。


 その後、柳川はあんなことやこんなことがあって、残りの蒲池氏は城を龍造寺氏に明け渡し、そのうちに龍造寺隆信が死んだので、佐賀の本拠地のほうは


 龍造寺の一番弟子であった鍋島氏


が新センターを務めるようになっていった。


 鍋島氏の親分「鍋島信生あらため後の鍋島直茂」は、このころから秀吉と連絡を取り合っており、いよいよ秀吉が九州へやってきて戦国期も終わりとなる。


 直茂はそのまま佐賀藩祖となってゆき、秀吉の天下統一によって、三潴は元大友氏配下の「立花氏」が支配することになるのだが、キリがないのでこのへんで。



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 さて、話を龍造寺隆信の頃に戻そう。


 実は、わが大塚家のある地域について江戸時代の中期に書かれたとある「マイナーな資料」に、こんなことが書かれているのである。


 とりあえず、わが大塚家のあるムラをA村としておこう。そして、その隣の村(うちのムラと基本的に密接な関係にある)をB村とする。


 そして、その資料にはこんなことが書かれている。


「その昔、B村に龍造寺の家臣の『古賀伊豆』という人物が住みつき、A村にはこれまた龍造寺家臣の『隠岐』という人物が住んだ。その跡は『隠岐屋敷』と呼ばれているが、今は作地になっている」



 大塚家のある村はA村である。そこに「隠岐」なる人物が、住んでいた。そして彼も龍造寺氏の家臣であるという。


 R和尚といい、古賀伊豆といい、隠岐といい、我が実家のある地域には、なぜか「龍造寺氏の家臣」がやたらといるのだ。


 蒲池氏家臣でなく、龍造寺氏家臣だということは、考えられるのは2つしかない。



一つは、例の事件のあと、龍造寺氏から離反した面々が三潴に住んだ、ということ。


もう一つは、蒲池氏が柳川を龍造寺に明け渡した時の家臣で、彼らは佐賀に帰らなかった、ということ。


である。


 どちらにしても、R和尚をはじめ古賀伊豆も隠岐も「龍造寺氏に帰還しなかった」という点において、離反者であり、どちらかというと例の事件のあと「蒲池寄りの立場に立った者」ということになる。

 

 では「隠岐」とはいったいいかなる人物だったのか、これがさらなるミステリーなのであった。



(この章まだまだ続く)

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