前回の記事において、再び注目の的となった「大塚重太夫」の子孫、つまり姫路岩崎構に住んでいた大塚氏について、ガッツリ調査してみたい。
姫路に住んでいる大塚氏は、「出雲国能義 郡大塚村(現安来市大塚町)」の出であり、戦国大名尼子氏の家臣を経て赤松氏に属したと考えられる。
というわけで今回も、<調査中>と<50>の併用区間でお届け!
安来大塚地区は、大塚さんには関係ない世間の人にとって「ゲゲゲの女房」のふるさととして有名なのだそうだ。
ゲゲゲの女房のふるさと しまね観光ナビさんのサイトより
http://kankou-shimane.com/mag/mov/gegege/index.html
安来はそもそも島根の中でも東のはじっこであり、隣はもう鳥取県という、つまりは姫路よりの地域である。
戦国大名尼子氏は、
ウィキペディアより 尼子氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E6%B0%8F
出雲の国の守護代からスタートして、島根・鳥取を治め、安来にあった「月山富田城」を拠点としている。
そういう意味では、この地の「大塚郷」の大塚氏は、尼子氏の中心に近いところの勢力ということになろう。
尼子氏は、その後、広島の毛利氏と死闘を繰り広げ、中国地方の覇権をかけて争うことになるが、ご承知の通り、毛利には結局負けて滅亡してしまう。
子孫は毛利方について一部生き残るものの、苗字を変えてなんとか現代まで続いているという感じらしい。
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さて、尼子氏と大塚氏の関係を考える上で忘れてはならない重要人物がいる。それが
大塚与三右衛門(与三衛門)
なる人物で、ウィキペディアに載っている。わお!
ウィキペディアより 大塚与三衛門
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E4%B8%8E%E4%B8%89%E8%A1%9B%E9%96%80
要するに、毛利と尼子が戦争をしている時に「誰それが裏切ろうとしてまっせ」と吹聴してまわったので、みんなが疑心暗鬼になってしまうという
かなりやらかしてしまった人物
らしいのである。最終的には、
「いらんこと言うとるのはおまえか!」と尼子の重臣に切り捨てられてしまうのであるが、いやはや戦国の世の混乱が見えるようである。
この大塚与三衛門が岩崎構大塚氏の一族かどうかの確証はないのだが、地域的には「安来」の大塚氏であろうので、同族だと推測してもよいと思う。
「戦国人名辞典」によれば、大塚与三右衛門は、尼子晴久・義久の側衆で二代にわたって重用されたらしい。
レファレンス協同データベース より
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000151726
また尼子義久の家臣に「大塚勝五郎」なる人物がいたことが、
西国の山城 さんのブログ
http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2012/04/blog-post_20.html
に示されている。
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ちなみに、岩崎構地域の大塚氏の家紋は「片喰」であった。
安来大塚氏の家紋をご存知の方は、ぜひお知らせいただきたい!
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