少し前に入手した「福岡藩分限帳集成」であるが、その調査成果を全然書く暇がなかった。というわけで、小出しにしながら少しずつ読み解いていこうと思う。
まず、これまでにブログに書いた仮説を押さえておくが、福岡藩分限帳集成に収録の大塚氏の家紋が、◇を5つ十字に集めたものであるため、これを久留米藩大塚氏の「家紋 碁石」と同一とするならば、
福岡藩の大塚氏と久留米藩の大塚氏に同族がいる可能性がある
としたのは既出。
というわけで、福岡藩の大塚氏についても「わが先祖にあるいは繋がる可能性あり」と仮押さえした上で調べている途中であるわけで。
さて、「福岡藩分限帳集成」のうち、もっとも初期の分限帳である「慶長分限帳」に今回は着目したい。
この「慶長分限帳」はおおむね1596-1615の間の黒田長政(官兵衛の子)家臣を記載したものである。 補足として「慶長六年正月 中津より筑前へ御打ち入り(転封)の時の分限帳」という意味の語句が記されている。
福岡藩黒田家初期の分限帳ということで、なかなか記載には興味深いものがある。
まず、石高は大宰府天満宮の領地石高からはじまり、次に家臣の名簿が続く、
「井上九郎右衛門」(高橋一生)
「栗山四郎右衛門」(栗山大膳のおとんであり、濱田岳)
「母里太兵衛」(もこみち。料理が得意)
「後藤又兵衛」(塚本高史。まだ出てこない)
の順で書かれている名簿は、まさに「軍師官兵衛」でおなじみの面々であり、大塚氏としては、やはり
後藤又兵衛の筑前入りと大塚氏(又兵衛のお兄ちゃんが大塚将監になるため)
の関係は、興味深いところである。
この分限帳における「大塚氏」は
「田代半七組 三百石 大塚久助」
「代官衆 百五十石 久助父 大塚久左衛門」
の2氏が載っている。
問題は、この大塚氏が
A 播磨時代からの家臣で姫路からやってきた大塚氏なのか
B 中津で新たに召抱えられた九州大塚氏なのか
ということなのだが、これは現在調査中。
考え方としても、二つに分かれる。
① 大塚久助が三百石なので、本家臣であり、その父は昔活躍していたが、第一線から引退させる意味で代官にしたという見方。
② 在地(中津)の実力者である大塚久左衛門が初期に取り立てられ、息子がさらにグレードアップしたという可能性。
うーん、このあたりは単なる推測なので、正直わからないというのが正しいかも。
印象的には、一代官にしては石高が多いような気がするので、(息子の半分とはいえ150石であれば、いわゆる上士であると思うので・・・)①のような気がするのだが。
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さて、今日の本題。といっても前フリが長かったので、この節次回に続くのだが、とっかかりだけでも。
この慶長分限帳には
「組遁 百石 武州師父 新免無二」
なる人物が載っていて、これが一部の歴史通には議論を巻き起こしているところである。
そう、武州とは「武州玄信」ことあの宮本武蔵である。無二は宮本武蔵のおとんなのである!
宮本武蔵のおとんと福岡藩大塚氏が同僚である、というこの事実。ここから武蔵と大塚家の不思議な縁が後の世まで続いてゆくことになるのだが、そのあたりは、
まて次回!
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