実に面白い。
久留米藩大塚氏と日田地方の関わりを探るうちに、面白い情報を発見した。そう。あの天領日田岡田代官に仕え、のち久留米藩竹の間組格となった大塚氏の動向である。
軽くおさらい
<41>わがままは男の罪。そのとーり!
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/02/blog-post_19.html
久留米藩の系譜では、竹の間組大塚氏は「大塚伸右衛門」からはじまる。彼は日田生まれで、岡田代官から久留米藩に移動して仕えたことになっている。
ところがこの人物、なかなかの実務派だったと見え、調べるうちに面白い動きをしていることがわかってきた。
まず、いつものように、まずは近代デジタルライブラリを読もう。
近代デジタルライブラリより 天草富岡回顧録
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1208334
この本は基本的に天草・島原の話が書いてあるのだが、コマ数で言うと73コマに、天草が日田の管轄下にあった時期の事情が載っている。
概要はこうだ。
明和5年に、天草地方は島原城主の手を離れて、天領日田の管轄になる。そこから天明3年までの16年間、日田郡代揖斐十太夫の管理下におかれるのだが、事務引継ぎのため、実務者として「大塚伸右衛門」ら3名が島原へ出向、管理手続きの引継ぎを行った、というのである。
そしてそのまま大塚伸右衛門は「元締」という立場で、島原を統括していたらしい。
こうして考えると、大塚伸右衛門は、かなりバリバリな官僚であったと想像できる。日田代官の右腕から、島原統括、そして久留米藩へ転勤してからは奏者番的立場、であるから事務屋としての彼の能力の高さが伺えるというものである。
そして、日田における「大塚伸右衛門」の名前は、歴史通には知られているらしい。それを裏付ける資料をもうひとつ発見した。
創作童話「土に蘇る」 関美代子さんの小説から
(日田に関するサイトを運営なさっている方のページより紹介)
http://www.hita.ne.jp/~city/dowaok/seki/sk12-4.htm
この資料はフィクションである。しかし、歴史小説の体裁を取っている為、それなりの資料に基づいて執筆が行われていると思われる。
この物語では、大塚伸右衛門は、悪代官「岡田庄太夫」の右腕として描かれている。
実は先に出てきた揖斐十太夫は、岡田庄太夫の2男であるらしい。
ということは、フィクションということを前提にしても、大塚伸右衛門は、岡田庄太夫・岡田九郎左衛門・揖斐十太夫の3人に仕えているということが想像できる。
このおそらく日田において歴史上一番濃い時代を過ごしている大塚氏伸右衛門が何ゆえに久留米藩に移ったのかは、興味深いところだが、まだその事情がわかる資料には行き当たっていない。
というわけで、日田の大塚さん!何かご存知のことがあればご連絡くださいませ!
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