2014年4月25日金曜日

<54>久留米城図を読む 続編新資料!

 もうかなり前であるが、久留米城下の家臣の屋敷図を読んだことがある。

 
 <35>久留米城図を読む
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/02/blog-post_5.html


  この時は「久留米市誌」の別冊資料の中の久留米城下図をもとに、家臣の「大塚氏」の居宅を探して2氏発見したのだが、今回はもうひとつ比較資料を用意してみた。


 今回取り上げる資料は、前回より古い時代のものである。前回の地図が「天保年間」のものであるのに対して、今回のは「元禄」時代のものであるので、ざっくり140年前後は古いということになる。


 ちなみに、前回の地図はここ。

 近代デジタルライブラリ 「久留米市誌 別冊」
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209649



 今回は、おなじ近代デジタルライブラリより 「久留米小史」を見てみよう。


 近代デジタルライブラリ 「久留米小史」 巻之1-2
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766615


 コマ数は17~19コマ、前回のものよりかなり読みにくいが頑張って見てほしい。


 さあ、ここから面白いことが判明する。



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 まず、天保年間に竹ノ間組格と思われる「大塚氏」の屋敷場所を元禄年間の地図で見ると、名前がまったく異なっていることがわかる。

 つまり、元禄時代には竹ノ間組大塚氏はいない、ということである。

 ちなみに、天保年間の屋敷の並びは「大塚」「中村」「吉田」「榊」「松岡」だが、元禄年間にはおなじ場所は「藤野」「谷田」「吉田」「岡田」「豊前下屋敷」となっている。

(吉田家のみ変わっていないと考えられるが・・・)


 このことは、久留米藩の略系譜ともつじつまが合う。大塚平十郎に代表される竹ノ間組大塚氏の家柄は、系譜上では「天領日田代官に仕え、そののち久留米藩に来た」ことになっている。


 石高こそ300石で多いのは「それなりの待遇でやってきた」ということになろうか。


 
 さて、もう一方の中小姓格と思われる大塚氏についてだが、こちらは元禄と天保で実際の居宅の位置は異なるものの「もう、すぐそこ、目と鼻の先」くらいの場所に引っ越していることがわかる。


 ということは、このクラスの大塚氏は、元禄から天保までほぼ同格で続いていると見ることができるわけだ。


 元禄年間の地図から読み取れる大塚氏は、この1氏のみである。かなり文字が読みづらいのでもしかしたら見落としがあるかもしれないが、もし読者諸君の中で発見した方があれば、ぜひお知らせいただきたい。



 この調査でわかったことは「そりゃ140年もの間があいているのだから、けっこう住所が変わってるわな」ということである。


 いくら封建社会・身分固定とはいえ、藩士の状況は「意外に流動的」と見るほうが正しい。


 特に城下町の藩士の家ほど「転居が激しい」と思わざるを得ない。田舎の農家のほうが、よっぽど同じ土地に住み続けているように思われる。


 

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