ところが、一般的には「侍以外は苗字を持っていない」というイメージが浸透していると思うが、実はそんなことはなく、「侍以外は苗字を公に提示できない」というだけで、それぞれの家に苗字が実際はあることが多い。
苗字・帯刀とは侍の「権利」であり、
苗字を名乗ることが許されている
刀を持つことが許されている
という許可の話であって、それぞれの家に「苗字がない」というのとは根本的に異なることを覚えておきたい。
江戸期の資料を見ていると、その時点では町民や農民であっても、実は苗字を持っていて、さらになんらかの事情でそれを公にすることを許されている者もたくさんいる。
今回は、そのあたりの「大塚氏」の事情が垣間見える資料をご紹介してみよう。
豊津県、というのは明治の廃藩置県の際に短い間置かれていた小さな県だが、その後小倉県を経て福岡県に編入されている。
というわけで、今回の資料も広い意味での福岡大塚氏の由来を示すものである。
近代デジタルライブラリより 福岡県史資料 第4輯
この中に「明治四年豊津県町家帯刀之者言上書」というのが収められていて、いわゆる明治初期に「苗字帯刀を許された士分以外の者」の説明がなされている。
コマ数で言えば336コマにこんな記載がある。
「木城村 大塚孫造 嘉永6年に金5両献金、上下御免・・・(以下役職など)」
この大塚氏は、藩に対する金銭的貢献によって、上下すなわち「裃(かみしも)」を着用することを許可された、というわけである。
この文書をよく読んでいくと「一代苗字御免」とか「一代苗字帯刀」なんて記載も出てくるので、こうした「何がしかの理由で名字帯刀が許された者」には、「一代限り」の許可もあったことを学ぶことができる。
残念ながら当文書における大塚氏は上の記載のみなので、それ以上の詳細がわかるところではないが、しかしながら、こうした記載があることで江戸期における福岡大塚氏には「士分」を持つ者、「町民」など、あるいは帰農している者など、封建的身分の上で多様な形態をとっていたことが推測できるのである。
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