しばらく更新が途絶えているのは、資料の到着を待っているからである。
ああ、また書籍にお金をつかってしまった。
「また、つまらぬものを斬ってしまった」
といえば、ルパン三世の五右衛門の台詞であるが、つまらぬものどころか、必要な資料である。
しかし、うちの嫁はんからすれば、次々に届く「古本」に
「またしょーもないもんばっかり買いやがって!」
となるわけで、こちらは恐縮するばかりである。
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長きに渡って絶賛お届け中の「わが大塚家の先祖探しツアー」であるが、実はなーんとなく、メドが付き始めている。
そのためにも資料探しに奔走しているのだが、我らの先祖が「赤松系ではないとすれば、たぶんこうだろう」という推理が、ようやくできるようになった。
その全容は、近々お伝えできそうな予感だが、請うご期待、といったところ。
さて、今日はそこへ至る前段階として、また不可思議なデータを見つけたのでそちらを紹介しようと思う。
以前当ブログでもちらりとお話したが、最近私は「地縁血縁解析法」という謎のテクニックを駆使して、自身の家系について分析しているのだが、その中で面白い事象に遭遇したのである。
まずは、当ブログの<51>に立ち戻ろう。
<51>農家 大塚氏の源流?!を求めて!
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/04/blog-post_12.html
この中で、私の一族の出身のムラ(集落)において、一番多い名字が「北島」で、次が「大塚」であることは既に述べている。
そして、ムラの中のとある北島家が地主で、またとある大塚家が作人という関係があることで両家のつながりやポジション、立ち位置について考慮すべきであることも頭に入れたわけである。
そこで、こんなことを調べてみた。そもそも、北島氏とは、どんな一族なのか。
すると、意外なことがわかったのである。
以前紹介した「名字分布図鑑」さんで、北島姓を検索するとこうなった。
「日本名字分布図鑑」さんより北島姓
http://myozi.web.fc2.com/winter/zukan/frame/f000434.htm
これだけではわけがわからないので、比較のために
「日本名字分布図鑑」さんより大塚姓
http://myozi.web.fc2.com/spring/zukan/frame/f000086.htm
どちらも「市町村別分布地方地図a6(世帯数)」を広げてよく見てほしい。
どうだろうか?とても不思議なことに、
「大塚姓」と「北島姓」の存在市町村分布図がとてもよく似ている
ことに気付かないだろうか。もちろん、細かな違いはあるが、大まかな分布としては、共通点が見えそうな感じする。
さらに面白いことに「名字分布図鑑」さんの左の欄には、その姓の「高密度順位」が載っているのだが、北島姓においては
「1位 三潴郡大木町」「12位 (旧三潴郡・八女郡)筑後市」「17位(旧三潴郡)久留米市城島町」
という結果となっており、「北島は三潴地域の姓」だということがわかるのである。
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これらのデータが何を示しているのか。それは
「大塚姓と北島姓」が歴史的に何らかの関係を有している
ということに他ならない。
ちょっと、わかりにくければこういう例えはどうだろう。軍師官兵衛ちゃんでいえば
「小寺姓と黒田姓」
は関わりがある、という具合だ。当ブログではおなじみの「赤松系家臣団」でいえば、
「淡河姓・明石姓・衣笠姓」
などは、関わりがある、という訳だ。
実際、久留米藩の分限帳にはこのあたりの苗字がやたら出てくるのだが、仮に「淡河さんと明石さん」が住んでいる地区が九州にあれば、
「うーむ、恐らく彼らは播磨からやってきた赤松家臣団だな」
という推測が成り立つわけである。
残念ながら、北島氏族は、赤松系であるという資料はほとんどないので、大塚-北島ラインが繋がっているとすれば、
「大塚氏・北島氏が仕えた共通の戦国武将がいるのか」
といった目線で考えるのも面白いだろう。
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ちなみに太田亮大先生の「姓氏家系大辞典」によると九州の北島姓は
肥後の豪族。藤原氏族で本姓は「益子」氏のち「北島」。
嘉吉三年の菊池持朝の侍帳に「北島新左衛門」、永正元年政隆の侍帳に「北島長門守氏定」が載っている。
とのこと。
このあたりはさらなる調査を続行予定である。
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