2014年5月10日土曜日

<62>墓地についての考察 墓所と納骨堂

 先日の父の実家訪問における現地調査で気付いたのだが、どうも福岡県というところは、「お墓」について関西とは少し異なる風習があるらしい。

 私がふだん見慣れている兵庫県の村々の墓地・墓所というのは、(みなさんの地域はどうかわからないが)

 一族の墓地が概ね住居から少し離れた山すそや藪の中(あるいは近く)などにあり、おそらく江戸期ごろから残っているであろう墓石がいくつか立っていて、「これが先祖代々の墓所ですよ」というスタイル


を取っていることが多い。


 これらは古い時代のもので、明治大正昭和時代においては、それだけでは当然墓地が足りないので、「村」単位で南向きの日当たりの良い場所などに「村の墓地」なるスペースが作られ、そこにより多くの家々の墓地が「団地」のように作られていることが多いと思う。


 この時期のものは「寺」が主導権を握って近くの場所・あるいは寺の敷地内を提供して「檀家のための墓所」を形成しているところもある。


 「村」主体か「寺」主体かは別にして、檀家は当該地域の人々が多いので「ムラの人々が墓地を作る」という意味合いでは、ほぼ同じスタイルだと考えることもできる。


 さらに新しくなると、石材会社やマネージメントする「墓地を経営する法人(元は寺だったり・石材会社だったり)が開拓した土地、あるいは市レベルなどで設定した土地に墓地が作られ、それぞれ


私営の墓地・公営の墓地


として運用されているスタイルも見ることができる。


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 ところが、福岡県では、「墓地」が少ないらしい。というのも、わが実家においてもそうなのだが、福岡県の村々では


 ムラの納骨堂


というものが建立され、そこに骨をお納めする、という形式を取っている。

 今回調査した私の実家の地域にも当然「納骨堂」があり、興味深いことに納骨堂の周囲に「墓地」が分譲形式で形成されている。


 どういうことかというと、中央に納骨堂があり、その周囲に区画が切ってあって、それぞれの墓を持ってよいことになっているわけである。(当然、お金を出して区画を買っている形になる)


 さて、我が大塚家は、祖父と祖母が納骨堂に眠っているのだが、実は実家の敷地の裏にもちゃんと墓所があって、納骨型の大きな墓碑と、その周囲に江戸期からの古い墓が点在している形になっている。


 面白いことに、隣の敷地にもこれまた「別の大塚家」の墓所があって、そちらもおなじ形式の中央墓碑があり、古い墓石が点在しているので、


 納骨堂形式以前からの墓所スタイル


であることがわかるのである。


 実家のムラの納骨堂は昭和30年代の建立であるから、それ以前の墓地の風習がどうであったかはわからないのだが、(あるいは福岡県全体での墓地のスタイルの変遷を知りたい)付近の大塚家の状況を見る限り


 自分の土地の一部に墓所を持つ(結果的に敷地内に見える)


という形が、福岡県三潴郡の古い形なのではないか、と推測できる。


 もちろん、兵庫県山間部においては、おなじ自分の土地でも「田んぼに適している場所」は平地、「住居に適している」のは山すそ、そして「所有している」山林がセットであるから


 平地には墓所がなく、むしろ山側に墓所が作られる


ことが多い。


 これは、福岡における「宅地も田んぼも、基本的には平地(平野の一部)」という土地形状を考えると、


 住居の土地のいちばん外れに墓所が作られる


という形式にならざるを得ないことも、なんとなく見えてくる。



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 福岡地方の墓所について調べていると、家系図を作っておられる業者さんである


 家族の樹さんのサイト
 http://www.kakeisi.com/survey/survey_fukuoka.html#fukuoka


を発見した。

 
 こちらでは、少し気になる記事があり、上記のとおり「納骨堂形式」が多いため墓地が少ない点も指摘されていたのだが、それよりも


 福岡では


 茗荷紋が少ない


との旨記してあることが、興味深い。


 不思議なことに、我が大塚家の実家だけでなく、地域の別の少なくとも2家が「抱き茗荷」紋であり、それが私の実家地域の「特殊事情」だとするならば、


 抱き茗荷をチョイスした、あるいは伝承してきたその3家


にはどんな理由があるのか、が気になるわけである。



 というわけで、福岡県の大塚さん!家紋を教えてください!








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