先週は福岡へ行っていたので、NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」を見ていないのだが、早く録画を見ないと!と思っている間に、もう次の日曜日が来てしまった。
さて、かなり唐突だが、”黒田官兵衛”といえば、私にとっては
陣内孝則さん
が気になって仕方がない。なぜかというと、陣内さんは
「うちのおとん」にそっくり
だからである。
実はうちのおとんは、数年前に若くして60代で亡くなっているので、私は陣内さんを見るたびにおとんを思い出して感慨にふけってしまう。
それにしても、おとんがあまりにも陣内さんに似ているので、「うーむ、もしや彼はオヤジの隠し子かなんかではないのか?」と本気で思うほどである。
それが面白いことに、当ブログの愛読者の方はおなじみの通り、うちのおとんは「福岡県三潴地域出身」であり、陣内孝則さんは「福岡県三潴地域」出身なのである。
さらにぶっちゃけて言うなれば、陣内孝則さんは大川市出身であり、うちのおとんが通っていた高校が大川市の高校なのだから驚いた。
そしてここからはもっと恐ろしいことなのだが、
私は陣内孝則さんに全く似ておらず、おかんにそっくり
なのであーる!いったいどうゆうこっちゃ!
==========
最近、このブログは真面目な書き出しが多く、ツカミもボケもなかったので、久しぶりにやらかしてみたのだが、もちろん意味がある。
そう、今回のテーマは、ズバリ戦国一の極悪男として有名な「宇喜多直家(陣内孝則)」と岡山大塚氏についてなのでである。
では、気を取り直して、宇喜多家について見てみよう。
いつものように近代デジタルライブラリーより「岡山県史」に「宇喜多家の分限帳」が収録されている。
近代デジタルライブラリーより 「岡山県史 第2 『宇喜多家分限帳』」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1261440
さてこの分限帳、筆頭は「戸川肥後守 25600石」、次に「新免伊賀守 3600石」となっている。
新免伊賀守は慶長5年に黒田長政に召抱えられているので、この宇喜多家分限帳はまさにその前夜戦国期のものということになる。
宇喜多氏は、永禄期に備前を領有し、美作から播磨へ進出することを伺っていたが、戦国期の動乱の中で、浦上氏→毛利氏→織田氏につき、まさに大河ドラマ通りの「食えないやつ」ぶりを発揮している。
ところで、この分限帳の中にも、あらまあ!「大塚」の名があるのである。
==========
大塚彦七 50石
(中略)
何刻茂半役被仰付候衆
大塚菅右衛門 530石
(中略)
大塚半左衛門 150石
==========
慶長以前の分限帳に、大塚の名が出てくるのだから、そりゃもちろんこの出自について知りたくなるものの、備前ならびに美作あたりの大塚氏だとすれば赤松系も視野に入ってくる。
このあたりはまだよくわからないので、調査続行!
==========
さて、岡山大塚氏を調べていると、別にちょっと気になる記事を見つけた。
西国の山城 さんのブログより
http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2011/04/blog-post_11.html
オープンエア・おかやま さんのサイトより
http://www2a.biglobe.ne.jp/marusan/phyurindo1.html
どちらも同じ内容だが、岡山県玉野市の「友林堂」についての説明で、この霊廟と墓を守っていた「則武氏」がのちに「大塚」と姓を変える話が載っている。
則武氏は、武田信玄で有名な甲斐の武田氏の子孫の一部が「則武」と姓を変えて宇喜多氏に仕えたとのことなので、
ごさんべえ さんのサイトより
http://gos.but.jp/norit.htm
marusan さんのサイトより
http://www2a.biglobe.ne.jp/marusan/phtogawayurinhakatoyurindo1.html
この大塚氏がおなじ則武一族であれば、武田→則武→大塚、の流れを想定できそうだ。
★ただし、宇喜多分限帳の大塚氏より、ずっと後のことだと思われる。
というわけで、岡山周辺の大塚さん!ぜひ家紋を教えてください!
0 件のコメント:
コメントを投稿