2014年5月23日金曜日

<66>『北肥戦誌(九州治乱記)』を読む その2

 さて、なかなか濃い内容の「九州治乱記こと北肥戦誌」のつづきを読んでいきたいと思う。



 近代デジタルライブラリー より 「北肥戦誌・九州治乱記」 エピソードツー
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441746



 <コマ39> 「あの家紋、ほちぃ」


  鍋島氏と大友氏が戦っている時のこと。

「鍋島が大友方の陣を窺って見ていると、陣幕の紋が茗荷の丸であり、ろうそくの光に輝きその形がはっきりと写し出されていた。そこで鍋島信生(のちの佐賀藩主)は家臣に言う。

『おまいら、あの紋を見ろ。うるわしいではないか。よし、今からあの陣に一気に攻め込み、ぶちかましたことを吉例としてワシの紋にしようぢゃないか』

というわけで部下に「俺は神代長良だ!裏切って寝返るぞ」と大声でウソをつかせて陣内を混乱させ、一斉に襲い掛かったのであった」


 ・・・というわけで佐賀藩鍋島のお殿様まで「抱き茗荷」(実は抱き杏葉)を使うことになりましたとさ。

 パクリはするわ、成りすますわ、なかなか卑怯なり鍋島信生!




<コマ39> 犬塚姓のこと、そして小城一揆


 コマ39の続きである。

 
 実は北肥戦誌後半になると「犬塚姓」がたくさん登場するようになる。たとえばこのコマに出ている「犬塚伊豆守」など、大塚に似ているため気にかかるところであるが、実は「犬塚姓」のほうが出自がはっきりしているので押さえておく必要がある。


 犬塚氏は、三潴郡犬塚出身の蒲池氏系列であり、のち蒲池から独立し小弐氏につく。

 ややこしいが、その後犬塚氏は大友氏方につき、さらにのちは龍造寺についた。

(コマ39では犬塚伊豆守は龍造寺家臣となっている)


 ・・・敵も味方もあったもんじゃねえなあ。


(ちなみに犬塚姓と大塚姓の関わり、変化はよくわかっていない。おそらく無関係の可能性大)


 さて、次に「小城一揆」として列挙されている名前を見てみよう。


「小城一揆、徳島、粟飯原、空閑、大塚、桃崎、彌頭司」


 前回松浦党の事を書いたが、こちらも「小城グーン!ダーン!(軍団)」のことである。現在でも小城市が佐賀県中央部にあるが、そこらへんの武士集団ということになろう。


 のちに小城城を鍋島氏が建てたりするので、小城地域はずっと鍋島支配下にあったということがわかる。



<コマ40> 大塚左京允・大塚内蔵允


  小城一揆のメンバーとして「大塚左京允」の名前、それから小城勢かどうかは読み取れないが「大塚内蔵允」の名前が見える。


 ちなみに追加情報。


 佐賀県小城市小城町岩茂大塚


なる地名が現在もあるようで。ということは小城一揆勢の「大塚」姓の発祥はどう考えてもココでしょうね。


 ★これにて1氏追加?! 佐賀県小城出自の鍋島家臣、大塚氏ということで。




<コマ41> 謎の男がいる?!

 このコマ後半に

2尺7寸の太刀を振り回す「小城鯖岡の犬塚左京允盛家」なる人物が登場するのだが、なーんか気になるのは、前回の記事を参照してほしい。

 コマ189に「岡の大塚左京亮盛家」なる人物が出てきているのだが、名前が似てるような、似てないような・・・。

 どちらも小城周辺の武将なので、


同一人物


の可能性が大である。


★こうした「大塚」「犬塚」「木塚」などの誤記があると、困ってしまうのだが、江戸時代の人に文句を言っても仕方がない。状況から類推するより他ないのである。



 結論から先に言えば、この人物


犬塚鎮家 のこととごっちゃになってる?もしくはなってない?


別名犬塚盛家。


ウィキペディア参照のこと

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E5%A1%9A%E9%8E%AE%E5%AE%B6


犬塚鎮家は小城一揆衆じゃないと思うんだけど・・・。さらにいえば、鎮家は「弾正」「播磨守」ではあったが「左京允」だったかどうか・・・。



(長くなるので、この章もまた続く)



 


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