当ブログで取り上げている特に「福岡藩」「久留米藩」「柳河藩」などの分限帳は、市販本として刊行されているため、先立つものがないと読めない、という庶貧民には悲しい状況なのだが、
(いや、図書館行ったらタダで読めるお)
今回は、そんなあなたのために、無料で読める福岡藩の分限帳を一緒に読み解いてみようと思う。
今日ご紹介するのは「福岡藩家中(万延元年)分限帳」というものである。
これは「福岡藩分限帳集成」には収録されていないので、どちらにしてもぜひ目を通して置きたいところ。
いつものように
近代デジタルライブラリより 福岡県史資料 第9輯に収録
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207977
コマ数は183コマからだが、かなり長いので頑張ってついてきて欲しい。
当資料における大塚氏を列挙する。
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大組(中略)
1000石 大塚七左衛門 因幡丁
(中略)
御馬廻組(中略)
510石 大塚小三 土手ノ丁
250石 大塚一二三 別府村
100石 大塚牛次郎 御供道
無足組(中略)
20石 大塚作太夫 極楽寺丁
15石 大塚仁左衛門 道和小路
剣術(中略)
14石 二天流 岡 大塚伊右衛門 中庄
中船頭(中略)
110石 大塚五郎太夫 御山ノ下堀ノ内
小船頭(中略)
20石 大塚喜太夫 州崎
両市中町家御扶持
1 大塚休右衛門
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ご覧の通り、万延年代における福岡藩大塚氏は、禄高の高いものから低いものまで、万遍なく揃っている。
万延元年とは1860年であり、実はあと8年ほどで大政奉還を迎える幕末時代であることをイメージしてほしい。
比較のために、以前に紹介した「安政分限帳」をもう一度見てみると面白いことが見えてくる。
ちなみに安政時代は1855~1860年で、万延の直前に当たる。
<48>もしかして謎が解けた?!
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/04/blog-post_6.html
ここに登場した大塚氏は、例の◇が5つの「碁石?」紋の「千石 大塚六之助」であるが、今回登場した「大塚七左衛門」は、石高が同じ千石で、住んでいるところが同じ因幡丁(町)であるため、直系の同じ家であることがわかる。
さて、この大塚七左衛門、別の資料にも登場しているので押さえておこう。
東京大学資料編纂所 福岡県下幕末維新期史料調査より
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/20/saiho_FUKUOK~1.HTM
70・71 慶応3年の項に大塚七左衛門の名前があり、この文書は福岡と預かり地になっていた長崎との間での事務文書のようだが、大塚は「御納戸頭」という役職になっていることもわかる。
もうひとつ興味深いのは「剣術」の欄にある、「大塚伊右衛門」である。福岡藩では、大塚家は宮本武蔵の二天流の伝承家であったことは既に述べたが、こちらももうひとつ資料を挙げておく。
「宮本武蔵」さんのサイトのうち 丹治峯均筆記8の項より
http://www.geocities.jp/themusasi2de/houkin/d108.html
この資料では黒田藩の「二天流 兵法者」について大塚伊右衛門・大塚作太夫を挙げているが、作太夫のほうも、上記分限帳に記載がある。
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こうしてみると近世福岡県における「大塚氏」の様子がおぼろげながら見えてくるのだが、さすがにこれらの大塚氏が「どこから来たのか」については、まだまだ資料がない。
というわけで福岡県の大塚さん!家紋を教えてください!
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