前回までの講読で、神代長良が千布・土生島城をからくも脱出した話を読み込んでみました。
一方奥さんとは離れ離れになっていますので、長良の妻がどうなったのか、については巻の十七にて説明されることになるわけです。
というわけで、今回はその次の巻を読んでみましょう。
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神代長良妻室の事
さて、長良の妻は、土生島の城を忍んで脱出し、河窪藤付の先達の坊へとひとまず身を落ち着かせていた。
しかし、しばらくは良いとしても、このままいつまでもここに居るわけにはいかないだろうと、松延勘内に長良の元へ戻るよう命じ、乳母だけをお供にして故郷である鹿江へ向かうことにした。
そこで、村の女が旅をしているような服へ変装し、編み笠姿にさもボロボロの草履を履いて、夜の闇に紛れるように出発なさった。
頃は四月の末、ホトトギスの鳴き声が遠空にこだまするのを聞く彼女の心持はいかばかりのことだろうか。つと、その心境を筆に執り、
『心せよ なればかりかは時鳥(ほととぎす) 物思う身に夜半の一声』
としたためては、
※ここから先の部分は、ある意味軍記モノらしく、ちょっぴり浄瑠璃の脚本のように文章が書かれています。歌舞伎・浄瑠璃に詳しい人であれば、なるほど長良の妻の足取りを『道行(みちゆき)』に見立てて書いているのかな?と思わせるほど情緒的なシーンです(^^
(というわけで、まるで近松門左衛門のパクリのような原作のテイストをお楽しみください)
~と打誦して、分けつつ行けば小笠原、袖に玉散る篠木野や、ここはいずくぞ八溝の、水の流れの末かけて、妻の行方を安穏に守らせ給えと、あたりなる白髭の御社へ、心ばかりに奉幣あり~。
さて、このようにあちこちと辿りながら、河窪から鹿江まではわずかの行程なのだが、三日三晩泣く泣く歩いてゆく様子はたいへんに痛々しい。
ようやく実家にたどり着いた時には、母をはじめ皆大いに驚き、また大いに彼女を労わったものの、龍造寺に知られてはいけないと大堂の社家にかくまうのであった。
(この段終わり)
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道行になっているところは、突然「七五調」に切り替わりますので、原文を読んでいる人はすぐに気づくと思います。
この道行きの文体、今では歌舞伎や浄瑠璃でしか体験できませんが、実は鎌倉時代には成立していて、『太平記』あたりではバリバリ使われているようですね。
さて、話を元に戻します。
とりあえず神代長良の妻も、無事実家に帰ることができたわけですが、この後、神代長良本人も、浪人となって再起を誓います。
残念ながらこのあたりでは、誰がどうしたという話は大変少なく、いろんな周囲の武将たちの助けを得ながら、龍造寺隆信へのリベンジの機会をうかがう、という話になってゆきます。
「長良の従者二百余人」
という言葉がたくさん出てきますので、それくらいの家臣団が生き延びており、大塚隠岐もこの中にいるか、もしくは一旦別行動を取ったものの、後で合流しているのではないか、と想像します。
その後、大きな活躍をしたのは古川新四郎で、彼はにっくき納富但馬守に復讐を果します。
こうして読み込んでみましたが、大塚隠岐がその後どうなったのかは、一切記載がありません。
ただ、「討ち死に」という記載がないことを重視すれば、なんとか生き延びて神代家臣として従い続けたのではなかろうか、と読むことができるのではないでしょうか?
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<おまけ>
さて、おまけで今日は高校国語「古典」の授業をかましておきましょう。
問 なぜ北肥戦誌の作者、馬渡俊継はこの場面で「ホトトギス」を描写しているのでしょう。考えられる理由を説明しなさい。
・・・いやあ、高度ですねえ。高度だけれども、なかなか興味深い良問です(自画自賛)。東大入試で出たりしないかな(笑)
でもまあ、いちおう高校国語レベルの知識で解けますので、いってみよ!
【解答】
ホトトギスは、漢字で書くと「時鳥」と書いたり、カッコウに似ているので誤って「郭公」と書かれたりします。正岡子規は、血を吐いたので、「血を吐くまで鳴く」と言われたホトトギスをもじって「子規」と号しました。
また、「不如帰」という当て字で書くこともあります。これは中国の故事に由来しますが、『帰るに如かず』つまり、帰ることにかなわない・帰ることに越したことはない=帰りたい!という意味を持っています。
神代長良の妻が、戦乱の中実家に戻ろうとする場面ですから、「無事に帰りたい」という彼女の気持ち、心情をホトトギスを使って感傷的に表現したものだと考えられます。
馬渡俊継ちゃんは、基本的には冷たいというか淡々と文章を書いている人なのですが、実はハートはなかなかのセンチメンタル文学者なのです。ツンデレ?!
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