2015年6月26日金曜日

<106> 講読『北肥戦誌』 ”神代長良千布落城の事” その2


(前回から続く)


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 龍造寺隆信に派遣された二人の家臣は、はなっから神代長良を騙すつもりで土生島城へとやってきた。そうとも知らない神代長良は・・・。というのがこれまでのあらすじ。


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 しばらくすると、納富但馬と龍造寺美作は、

「さて、我々はちょっと所用があるので、城原のほうへ行ってから、また明後日お伺いするとしましょうかな。ご返事はその折に」

と暇請いをして、ひそかに佐賀に帰って行った。

 クマもん隆信は、まさか騙されているとは思わないグッド神代の裏をかいてやろうと、その夜が明けるか明けないかのうちに、納富但馬守を先鋒に、龍造寺美作守信明、高木左馬大輔盛房、副島民部大輔光家以下約600騎で淵高木より攻め上り、千布の土生島へと押しかけて鬨(とき)の声を上げたのであった。

 また、クマもんは、別に城原の江上武種に連絡を取っており、加勢するよう要請していたので、江上の軍勢も城原から駆けつけて、土生島の北方、権現原ルートの横道を完全に封鎖してしまっていた。

 一方、土生島城内の神代家中では、引き続いて起こる弔事のため悲しみの真っ只中におり、

 「も、申し上げます!大変です、龍造寺軍が!し、城を取り囲んでおります!」 

という見張りの一報で、あまりに仰天してしまい、周章狼狽の状況に陥ってしまうのであった。


 そうこうしているうちに、佐賀龍造寺軍は、納富但馬守信景が第一陣として早くも城戸口を破壊。そのまま城の庭へとなだれ込んでくる。

「はやくも来たか!」

長良は、拳を握り締め、建物から飛び出し、

「なんという悔しさ!あのブタ野郎という日本一の(ピーーーー)に出し抜かれ、こんな無様な死を迎えることになろうとは!」

と唇を噛んでいる。

「よくよく運にも見放されたか。ついにここまで」

と長良は、早くももろ肌脱いで腹を切ろうと今にも刀を自分に突きたてようとした、その瞬間であった。

「あなた、早まってはいけません!」

必死に取り付いて長良を止めたのは、長良の妻である。それに引き続いて、長良の家臣たちが彼を取り囲み、口々に制しはじめる。


「殿、ここで死んではなりません!」
「早く!お逃げください!」

 島田入道鶴栖、大塚隠岐守以下家来たちは、夢中で長良を逃がすべく彼を凝視している。そのまなざしを見て、長良はグッと力強く頷いた。

「よし、わかった!されば!」

 長良は自害を思いとどまると、身を翻して走り始める。主従20人ばかりは、長良を守るようにして裏の北小口から城を脱出するのであった。


「いたぞ!逃がすな!」

龍造寺勢はそれを見て、逃がすものかと一斉に押し寄せてくる。

「殿をお守りしろ!」

神代家臣たちは、主君を必ずや逃がそうと、刀を抜いて佐賀勢に切りかかる。

 神代左京亮・おなじく左馬介・大塚隠岐守・中野新十郎・古河新四郎・秀島伊賀守・福島式部少輔たちは、走って走って切って切って、前後左右立ち回りながら森の中を駈けずり回る。

 あるいは切られ、あるいは倒れながら、それでもついに、長良たちは追っ手を振り切ることに成功した。


 しかし、土生島城では、まだ戦いが続いている。佐賀軍では、空閑三河守光家が火花を散らして城に襲い掛かっているところであった。

 すると神代家臣の福所大蔵は、長良を首尾よく逃がそうと、突然客殿の真ん中で仁王立ちになり、大声を上げて叫びはじめた。

「てめえら!よく聞け!俺こそが神代長良だ! てめえらが欲しいのは俺の首だろうが!運命今こそここに極まった!腹を切るから、首が欲しいやつは恩賞に持っていきやがれ!」

その声に驚いた佐賀勢が大蔵の方を見るもまもなく、大蔵は腹を十文字にかき破り、

「ぐうううううう!!!」

と声を上げてそのままうつ伏せで倒れこんだ。


 長良を逃がすしんがりを務めていた福島式部少輔は、これを見て

「うわあああああああ!」

と自分も龍造寺軍の中へ飛び込んで行き、打ち死にしたのだった。



(つづく)

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 ・・・・・・はてさて。手に汗握る名場面でございます。物語はもう少し続きますが、この続きはのちほど「検証編」としてもう少し読み込んでいきますのでお楽しみに。


 まず、今回押さえておきたいのは、ここで登場したわれらが大塚隠岐守です。

 「北肥戦誌」の中で、大塚隠岐が登場するのは、たったここだけ。そう、まさに文章で言えば、2箇所しか登場しないのです。


 龍造寺軍に襲われた土生島城、そこで神代長良につき従っていた「近しい家臣」として描かれている大塚隠岐は、おそらく何がしかの資料に残っていた人物なのだと思われます。

 それが証拠に、おなじ場面を描いた部分で「歴代鎮西志」にも登場しますから、この時土生島城に詰めていたことは事実なのでありましょう。


 しかし、このあと、「北肥戦誌」にも「歴代鎮西志」にも、一切記述がなく、


大塚隠岐守の姿は歴史の闇へと消えて


しまうのであります。


 そんな大塚隠岐が、歴史の資料からは出てこないものの、実はこのあと何がしかの変遷をへて、三潴地域へ所領をもらって落ち着いたのではないか、というのがこのブログの仮説なのですが、そこへ至るまでには


神代長良が、いろいろあったけど龍造寺隆信の家臣になる


というところまで話が進まないといけません。


 さあ、本当に当家の先祖と思しき「隠岐」なる人物はこの大塚隠岐なのか?!


 それを徹底検証するためにも、このあとの記述が見逃せません。次回は、この後の部分をじっくり読みながら、長良の家臣のうち


 果たして、誰が死んで、誰が死んでいないのか


を読み解いてみたいと思います!!! まて次回!













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