(前回から続く)
さて、講読「北肥戦誌」の段もいよいよ第3回に突入!
前回までは、神代☆グッド☆長良が、肥前のくまモン龍造寺隆信に攻められる経緯について読み込んでいきましたが、土生島城をかろうじて脱出した長良の下に「大塚隠岐守」がたしかにいたことまでわかったところです。
というわけでここからは、陣営のうち「誰が死んで誰が死んでいないのか」についてじっくりと検証したいと思います。
まずは、前回の続きをお楽しみくださいね!
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こうして長良は、付き添っていた家臣たちとも散り散りになり、今はわずかに島田入道鶴栖・古川新四郎・松延勘内ばかりを連れて金立権現の下宮の辺りまで落ち延びてきたが、思い出されるのは妻のこと、さすがに心配でならない。
そこで、今年15になる勘内が、
「殿、私が城の様子を隠れながら見て参ります!」
と申し出るので、 よしわかったと土生島へ戻すことにした。
勘内が、森に紛れながら城に潜入すると、城内の外れに長良の妻たちが呆然としながら身を隠しているのに出くわした。そこで勘内は、
「よかった!ご無事でおられたのですね。殿は無事落ち延びられました。しかし、御前のことが心配でならず、金立から私をお帰しになったのです。早くおいでになってください、急いでお供いたします!」
と言ったのだが、長良の妻は首を縦に振ろうとしない。
「いえいえ、私の身などどうなってもよろしいのです。あなたこそ早く殿のところへ戻って、お守りしてください。殿のことこそ、心配でなりません」
そう言って、勘内を戻そうとするところを、
「何をおっしゃるのですか!なんとしてもお連れしますので急いでください!」
と無理やり諌めて、 長良の妻や乳母と共に城の後ろの堀に橋をかけ脱出し、主従3人は河窪村藤付の山伏の坊まで逃げて行った。
一方、土生島城では、まだ敵味方入り乱れ命をかけて切り合いが続いていた。
神代左馬助は、長良の行方を追って金立の松原まで馬を駆けて落ちてきた。味方も次々に追いついてきて、24人が残っている。
左馬助は、彼らを従えて座主町を過ぎようとしていたが、頃は4月下旬のこと、24日の朝、辰の刻になった。
すると、左馬助一行の具足や甲冑兜に朝日がきらめいて、光が反射する。それを遠方から見つけたのは、もちろん龍造寺の軍勢だった。
「やや!あそこに、長良の勢らしき者がいるぞ!あるいは、大将長良かもしれぬ!」
と龍造寺軍は、即座に追跡を始める。
左馬助は、歳の頃壮年を過ぎ、イケメンの若武者である。 その左馬助も、佐賀勢が追ってきているのに気づき、
「気づいたか・・・、しつこい奴らだ!」
ときびすを返して、佐賀勢に向かって馬を駆け始めた。
左馬助勢と龍造寺軍は、やがて真っ向勝負となり、近づく敵を切っては駆け、駆けては切って互いに暴れ回った。
しかし、一人減り、二人減り、かくして24人は一人残らず討ち死にしてしまったのであった。
「首を取ったり!」
龍造寺軍の一人が、ついに左馬助の首を討ち、
「長良を討ったぞ!」
と勝ち鬨を上げた。龍造寺軍は一斉に声を上げ、勝利を確信したのであった。
土生島に静寂が戻り、龍造寺勢が帰陣を始めた頃である。
長良は、金立の下宮の西方の森に潜んでいたが、それから24日の朝金立山に登り、雲上寺の座主成長法印に対面した。
この寺でしばらく休息してから、主従3人は名尾山へ向かって名尾式部大輔のところへ、島田入道を遣わして状況を知らせたところ、式部大輔は肝をつぶして驚き、
「それは、大変なことでした。すぐに、長良殿をお迎えいたそう!」
と島田と共に名尾勢6、7人をつけて出迎えに向かった。
長良は、こうして名尾勢と合流し、畑瀬の城へ落ちていった。おりしもこの日は、神代勝利の死去から六十七日(むなのか)に当たっており、こうして長良の命があったのも、亡き勝利公の加護に違いないと、畑瀬城家中の者どもはみな泣いて、長良の姿を見て喜ぶのであった。
(巻之十六 終 十七へ続く )
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・・・はてさて。
相変わらずドラマチックな展開が続きますが、ここで原作の「巻16」は終了、次号へ続くという状態になっております。
しかし、今回は検証作業がありますので、とりあえずここまでのおさらいをしておきましょう。
まず、土生島城・神代長良サイドの人間と行動を確認しておきます。
■ 神代長良 → Aルート脱出成功
■ 妻 → Bルート脱出成功
■ 乳母 → Bルート脱出成功
■ 島田入道鶴栖 → Aルート金立まで脱出
■ 大塚隠岐守
■ 神代左京亮
■ 神代左馬助 →計24人討死
■ 中野新十郎
■ 古河新四郎 →Aルート金立まで脱出
■ 秀島伊賀守
■ 福所大蔵 →長良を名乗って切腹自死
■ 福島式部少輔 →敵中に入り討死
■ 松延勘内 →Aルート金立まで脱出 →城へ戻り妻と合流 →Bルート脱出
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こうしてまとめるとわかりやすいのですが、登場人物それぞれの生死や行動を確認すると、大塚隠岐は、この段階ではどうしているのかさっぱりわかりません(笑)
ひとつの考え方は、
「大塚隠岐は、あるいは城内に立てこもり戦っていた」
もうひとつは
「大塚隠岐は、長良に従って城を出た」
という考え方です。このふたつは、カンタンに言えば、夫を守っていたか妻を守っていたかの違いということになりましょう。
しかし、城を出ていたとしても、北肥戦誌の記述からは問題点があります。ここは原文でいってみましょう!
『かくて長良は付き添ひし者も散々になり、今は僅かに島田入道鶴栖・古川新四郎・松延勘内ばかりを召し具して』
さあ、ここで問題になるのは「ばかり」の用法です。いきなり古文の時間ですが、大学入試を受けた人は、高校古文を思い出してください。
もちろん、”ばかり”というのは「推し量る」「はかりごとをする」の計る・測るから来ています。なので一般的には「ほど・ぐらい」という訳し方をするのですが、ところが、”ばかり”が「程度」を表すのは、平安時代くらいまでで、それから後は、ほとんど
「ばかり=だけ」
という限定の用法へと変わるわけです。
そうすると、この文章は、
『島田・古川・松延の三人だけ』
というニュアンスが強くなり、 ここにそのほかのメンバーはいない!とほぼ断定できることになるのです。ましてや、このあと松延勘内は奥さんの方を助けに行きますので、残りは、長良と島田・古川の3人きりです。
それを裏付けるように、今日読み込んだ最後のほう、たしかに原文でも
「主従三人」
と書いてあり、状況は合致するのです。
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とすれば、現時点において、大塚隠岐は、
① 長良に同行はしていない。しようとしたが、はぐれた可能性がある。
② 妻を助けるべく城に残っている。あるいは城内で戦っている。
③ しかし、妻と一緒に脱出したかどうかは、わからない。
④ 城内にいたまま、あるいは城下付近で戦いが終了した可能性がある。
ということになります。
そして、大事な点として、
「死んだとは書かれていない」
ことも忘れてはいけません。
そう!北肥戦誌は、討死者については丁寧に拾い上げて記載していますので、その中に入っていないことは、逆に重要なポイントだと考えることもできるわけで。
そんな観点を持ちながら、それでは次回以降は、巻十七を読み進めてゆくとしましょう!
おたのしみに。
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追伸>Sさま。
こうやって読み込むと、北肥戦誌は歴史を追っているのではなく、『誰がどのように戦ったのか、あるいはどのように死んだか』を追っている戦功書だとよくわかりますね。
だとすればなおさら、大塚隠岐は死んでない!
(関係者が死んだ記録を出していない。そしてあるいはゆるゆる前線から引退したので、そこからはたいした武功がない。)
と推察しても、あながち外れじゃない気がするのですが(笑)
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