2014年3月17日月曜日

<調査中-徳島2><46> 現場にいる不審な人影 徳島編つづき

 いつもこのブログを書くときは、自分の家系に関する内容と、それ以外の大塚氏についてなるべく分けて書くように心がけているのだが、今回は<調査中-徳島編>とわが家系の大塚氏編<46>の併用区間でお届けしたい。


 なぜ、徳島の大塚さんの話が三潴の大塚さんと絡むのか、それは今回の記事を読み進めていけば、じわじわとわかってくる。


 まず、前回のおさらいとして、徳島の大塚さんは主に淡路島を拠点とした「稲田氏」の家臣に存在し、稲田氏が徳島藩の領主「蜂須賀氏」の家老でもあった関係で、四国側にも大塚さんが存在することを思い出して欲しい。


 では、それらの大塚氏が、どのような経緯で稲田・蜂須賀家の家臣となったのかという疑問については、「稲田家御家中筋目書」等に記載があるかないか現時点では確認できていない。


 しかし、仮説段階として、どうもキナくさい感じがする。



 そう、またまた不審な人影がちらついているのである。


 

 まず、大塚氏を抱えていたことが確実な稲田氏の動向を探ってみよう。

 (再掲)ウィキペディアより 稲田植元
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%94%B0%E6%A4%8D%E5%85%83



 これまたおさらいがてらであるが

①稲田家は、村上源氏の系統で、播州赤松で浪人をしていた。

②のち尾張の織田家に仕え、このころ蜂須賀氏と密接になる。

③秀吉に仕えて、三木合戦等にも参加。

④はじめ播磨龍野をもらう話もあったが、いろいろあって阿波を蜂須賀・稲田で領有。

多彩な家臣構成であり、元武田氏や加藤氏の家臣もいた。


などがわかっているという。




 なんだか、とってもプンプンにおう感じ、わかってもらえるだろうか?!




 不審な人影とは、そう播州赤松氏の影である。そして、それらがやっぱり三木合戦・播州攻めあたりの時代背景で一点に繋がってくるのだ。

 実際の稲田氏のルーツには不明な点が多いらしいが、赤松氏流大塚氏と同じように、「赤松系」を名乗っていたという。

 そうである。稲田氏も、大塚氏と同じく「わけわからん赤松系」の一氏族なのである!


 そして、恐ろしいことに、前回の情報の通り、「徳島系大塚氏に抱き茗荷紋の大塚さん」がいる、ということになると、これまた寛政譜の記載通り、


 すわ「赤松氏流大塚氏」か?!


となってしまうことにお気づきだろうか!



 ・・・・・・いくらなんでも、出来すぎの感が否めないが、


 ①寛政譜の大塚氏は赤松氏流を名乗っている。抱き茗荷。

 ②久留米藩士伝承のある三潴の大塚さんは抱き茗荷。もちろん、久留米藩主は赤松そのもの。

 ③徳島藩家老稲田氏は自称赤松氏流で、徳島に抱き茗荷の大塚さんがいる。



 これは、何の偶然か冗談か、マジでダヴィンチコードばりの家系ミステリーなのか、と思えてくるではないか!

 

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 稲田氏だけではない、義兄弟であり、名実ともに2家で徳島・淡路を治めた「蜂須賀氏」とて同じである。


 ウィキペディアより 蜂須賀正勝・家政
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E6%AD%A3%E5%8B%9D


 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%B6%E6%94%BF

 
 徳島藩以前の蜂須賀氏は、尾張出身でありながら、秀吉の家来として、播磨攻めに参戦し


 播磨龍野5万3千石や播磨佐用3千石


を領有した経緯がある。


 とすれば稲田・蜂須賀両家に仕えた大塚氏が、いわゆる「赤松系」であっても全然不思議ではない。状況証拠だけは、限りなくクロなのだ。




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 正直なところ、自分の家系を調査すればするほど、「赤松氏流大塚氏」なるものの正体がだんだんぼやけてきていて、歴史的にそういう一族は記録に残っておらず、他の家系の者が旧主君に仮託して名乗っている、と思うようになっていたのだが、今に至ってなんだかゾワゾワするのは気のせいか、おそらく風邪の引き始めかのどちらかだろう。



 なんで、抱き茗荷の大塚さんの背後に赤松氏が見え隠れするのか。


 
 さあ、みんなで一緒にハマりましょう!





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