我が祖先のルーツ探しが停滞する中、実は奇妙なデータを発見したので、今日はその話を書いておこう。
「家系は元久留米藩士」という伝承のある私の家の高祖父は、大塚喜平次という。
現在確認できる戸籍は、この「大塚喜平次」の長男のものであり、この長男は、三潴地方の現在の私の本家実家がある住所に戸籍を持っている。
「大塚喜平次」の名がわかったのは、この長男の戸籍に「前戸主 大塚喜平次」の記載があるからで、喜平次その人の戸籍はないため、生没年については不明である。
しかし、状況証拠がいくつか転がっているので、大塚喜平次の動向について、おおまかに捉えることは可能だと思われる。
まず、喜平次の子で、長男より先に生まれた女の子がいて、戸籍には「長男 (個人名は伏せる)の姉」、と記載されている。
つまり、こういうことだ。
<大塚喜平次の家族 (長男の戸籍)>
妻(長男から見れば母) 文政12年生まれ 嘉永3年入籍 明治23年死去
姉・三女 慶応2年生まれ
長男 明治2年生まれ 昭和4年死去
(・・・・以下略)
明治の戸籍は「戸主制度」になっているため、一族の長がまず書いてあって、そこに母やら姉やらが記載されているのだが、長男から見て「長女・二女」についてはそれ以前に嫁にいっているらしく長男の戸籍には記載がない。
逆に三女が掲載されているのは、一度結婚して離婚の後戻ってきていたので、長男の戸籍に載ってしまった、というわけである。
さて、ここで時間軸を見てゆこう。
【文政12年】 1829年 妻誕生
【嘉永3年】 1850年 結婚
【慶応2年】 1866年 第3子誕生
【明治2年】 1869年 第4子誕生
大塚喜平次から見て、妻が21歳の時に結婚したことになり、おそらく妻より年上であっただろうと仮定すると、ざっくり考えて喜平次は1815年から1825年頃の生まれであろうと見ることができよう。(文化12年~文政8年頃)
そして、結婚当時20代とすれば、
嘉永 20代
安政 30代
万延
文久 40代
元治
慶応
明治 50代
と考えることができる。
==========
さて、ここからが本題である。久留米藩有馬家家臣の略系譜によると、実は「大塚喜平次」なる人物が記載されているのである。
じゃあ、なぜ早くそのことを書かないんだ!とお叱りを受けそうだが、その記載は、いろいろと考察が必要なデータなのである。
そのため、今回のタイトルを「奇妙な符合」としたわけだ。つまり、2人の喜平次が、存在するのである。
まるでミステリーだ。
==========
その喜平次が記載されている中小姓格系譜を以下引用する。
『 △ 大塚 紋 碁石
○ 林賀
慈源院様御代坊主 (略) 元禄元(年)百石 同九(年)加増 都合御蔵米百六十石
|
助次郎
|
四郎右衛門 (略) 延享五(年)病死
|
助次郎 初(め) 十太夫 喜平太 喜平次
女
女
辰次郎 坪池源兵衛養子
女
(助次郎より)
|
平次 初(め) 文次 後 喜平太
源次
四郎右衛門 実(は)浪人 佐野衣蔵(の)子
寛政九年中小姓組(略)八十石 天保八年病死
(四郎右衛門より)
|
九兵衛 初(め) 助三郎
順蔵
(ここまで)』
上記を読んでわかるとおり、たしかに「大塚喜平次」は略系譜に存在する。しかし、確定できる年代として「延享5年」(1748年)に四郎衛門から家督を継いだのであるから、わが高祖父の生きた年代とは
100年くらい違う
のである。これは大問題である。いくら次の世代が親の名前を継ぐことがあっても、これだけ年代が離れすぎていると、「たぶん偶然の一致」と考えたほうが適切ではないか。
というわけで、さらに混迷を極める我が祖先探しの旅であるが、久留米・三潴地方の大塚さん、一緒に謎解きしませんか?
0 件のコメント:
コメントを投稿