さて、先日より「左三つ巴」の大塚さんから複数情報を頂いているので、今回は「巴紋」の大塚氏にスポットを当てて考察・推測してみようと思います。
前回の記事でも紹介したとおり、茨城県の大塚さん、福井県の大塚さんに「左三つ巴」の大塚さんがおられるところから、いろいろ考えを巡らせてみましょう。
茨城の大塚さんからの情報では、「現茨城在住。郡上八幡藩井上氏との関係。織田信長の家臣だったという伝承」の3点を伺っています。
情報を頂いた当初は、織田家臣としての大塚氏に着目していたのですが、調査が進むに連れて少し面白いことがわかってきました。
① 郡上八幡藩に着目してみる。
郡上八幡藩は、遠藤氏5代につづいて、井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と続く異動の多い藩です。
歴代城主については、
郡上八幡城さんのサイト
http://www.gujohachiman.com/siro/lord/
に詳細が載っています。
さて、井上氏は元禄5年から5年間郡上八幡を治めますが、井上正任が「茨城県笠間城主から」やってきて、そして「丹波亀山城主」となり出てゆくわけです。
この間、正任の息子正岑が幕府の老中へと出世したらしいので、まあ城主はほとんど江戸にいただろうと推測されます。
ここで、ちょっと不可思議なのは、茨城の大塚さんが、茨城出身で丹波亀山(現在の亀岡)に移ったので現在亀岡在住なら話はわかりやすいのですが、
「この時、大塚氏は郡上八幡から茨城へ移った」
と把握なさっているため、順序が逆のようにも思えます。
となると「井上氏がもともと茨城から連れてきた家臣が、丹波まで行かないで茨城に戻った」と考えれば、筋は通ります。
では、現茨城在住の大塚氏一族は、郡上八幡経由ではあるものの、やっぱりもともと茨城の氏族ということになるのでしょうか?
(しかし、それでは織田家臣との整合性がとれません)
★2014・4・28追記、井上正任の3男、井上正長が茨城下妻藩を立藩するという事実がわかりました。郡上八幡から下妻へ大塚氏が移動した可能性があります。
② 茨城という地域性が示すもの。
ではまず、この大塚氏が「もとから茨城出身」だと仮定してみましょう。茨城の大塚さんは、以前にこのブログで紹介した通り
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/03/blog-post_12.html
秀郷流 - 小野崎氏 - 大塚氏の「大塚氏族」が有名です。
そして、面白いことにこの小野崎氏の家紋が「巴紋」なのです。
播磨屋さんのサイトより
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/onozaki.html
毎度おなじみ播磨屋さんの記事によると、さらに面白いことが書いてあります。
「小野崎一族の家紋は左二つ巴と決まっている」とおそらく小野崎系大塚氏の子孫の「大塚さん」という方の指摘があるのです。
(この大塚さんの家紋がぜひ知りたいところですが)もしかしたら、こうした関係で、小野崎系大塚氏の家紋が「左三つ巴」になったかもしれません。(2から3に変えた?)
とすれば、茨城系大塚さんの「巴紋」の系譜はなんとなく見えてきそうですね。
しかし、そうなると、織田信長との絡みが消えてしまいます。
③ 織田信長について再考する。
そこで、再度信長について考えてみましょう。
郡上八幡というのは、現在の岐阜県です。戦国時代は織田氏がこの地域を完全に支配していましたので、たしかに信長と郡上八幡とは関係があります。
そもそも郡上八幡の藩祖遠藤氏は、美濃の斎藤道三の後、織田氏に臣従します。
ウィキペディアより 遠藤慶隆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E6%85%B6%E9%9A%86
そうすると、「織田家臣の大塚氏が郡上八幡へ異動してきた井上氏に従い、その関係で茨城へ移った」という説も成り立つように思います。
★2014・4・28追記、井上正任の3男、井上正長が茨城下妻藩を立藩しますので、合致します。
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いずれにしてもこの辺りはもう少し情報量が足りません。どこかに伝承の混同もしくは欠落があって、わかりにくくなっているのかもしれませんね。
皆様からの新たな情報お待ちしております!
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