2015年1月30日金曜日

<姓氏家系>家柄って何ですか?それおいしいの?

 ここのところ、ちょびっとブログ記事が停滞しておりました。その間、「平井」「益田」姓について、北部九州の氏族とからめながらリストを作っていたのでお許しください。

 あ、平井さんは少弐支流益田さんはもと高木で龍造寺の出所ですので、そういうわけでピックアップです。


 それとは別に、ずっと関西地方でのいろんな方面からの家系・氏族調査をしてます。戦国時代にからめてめっちゃ興味深いネタもあるので、そのへんはまた別の機会に。




 さて、ついでに実は私の母方の先祖についても、一つずつチェックしているのですが、なかなか面白いご先祖様に出会うことができました。


 えーっと、ややこしいのですが、私の父は「大塚」姓で、母は「Y」姓です。ここまでの一つ上の世代。それから。おじいちゃんは当然「大塚」で、おばあちゃんは「F」姓です。これが父方。母方のおじいちゃんは養子だったので、「H」姓、おばあちゃんが「Y」姓を女系で継いでいて、そのおばあちゃんのお母さんが「赤松」さんだったわけ。

 当然ですが、おばあちゃんのお父さんは「Y」姓ですね。


 で、今回発見されたのは、私の母方の直接のおじいちゃん「H」さんなのですが、この人は養子に入っているので、もとの姓の「H」という氏族を調査していたのです。


 すると興味深い史料が出てきました。江戸時代、寛政期にある藩の武士が、管内の事象を詳しく調べてあるいた書物があり、その中にこれまた管内の「姓氏」についてもまとめてあったわけで。


 その書物には、うちのおかんの姓である「Y」も、おかんのおとんである「H」さんもしっかり載っていました。

 まー、江戸時代の人というのは凄いですな。昔のこととはいえ、フィールドワークを踏まえた現地調査&聞き取り結果が残っているわけで、現代人からみればかなり興味深い。


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 ちなみに、おじいちゃんの「H」姓は、なんでも古来から「禁裏」←こう書いてある。つまりは、宮中とか朝廷ですね。その禁裏にある作物を献上していて、途中からその作物を入れる器である


 檜曲げ物(ひのきをまげて作った器)


を献上するようになった家柄である、と。で、そのため、一帯の山林はH家のものと禁裏から定められており、他の氏族の者はそれを覆してはいけなかったとか。

 もっと面白いのは、禁裏から書付を4通もらっているのだが、その書付は恐れ多くて見てはいけないので、書付を見てしまうとその家の当主であっても7日


・・・・。ここがよくわからないのだけれど、見てしまったら、


 7日で目がつぶれる?(失明する?)

のか

 7日で死ぬ?

のか、ぼやかして書いてあるので読み取りづらい!


 なんせ、7日で大変なことになるそうです(笑)


 いつのまにか「恐れ多い気持ち」が変化して、天皇家を魔物扱いしているところがすごい。



 あ、正確には、書付のことを「御綸旨」と書いてあります。


 ウィキペディアより 綸旨
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B8%E6%97%A8



 で、その御綸旨が怖くて、どこか他所の寺に預けているんだけれど、「まだ返してもらってない」と書いてある。わはは。

 江戸時代のその藩士も聞き書きしながら、ちょっと返してほしい感じがにじみ出てるところが面白い。

 で、4通のうち1通だけそのH家にあるとか、けっこう詳しく書いてあるので、よっぽどHさんの家での話が面白かったのだろう。



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 まあ、そんなH家から養子に来たおじいちゃんですが、どうもY家にくるに当たっても


「とにかく家柄がよくないとあかん」


と言われ続けていたそうで、養子先のY家がどれほどの家柄か知らんけど(実はおなじ書物にY家は庄屋の家で、油屋もやってたと書いてある)、赤松家から嫁に貰っていることを考えると、


とにもかくにも家柄第一主義


であったことは疑いようがありません。


 少なくとも、ひいおじいちゃんおばあちゃん、おじいちゃんおばあちゃんまでは


「近世家柄原理主義」(=封建的身分制度)


に縛られていたわけで、けして自由な結婚ではなかったのでしょう。


 そういう意味では、近代自由恋愛を謳歌できたのは、団塊の世代である


「おとんとおかん」


の世代からで、それ以前には、自由恋愛なんてほとんどなかったということでもあります。


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でも、ちょっとおかしいと思いませんか?私たちが教科書で習ったのは、「士農工商」的な身分制度ですよね?

 侍がいて、農民がいて、商人やらがいるという「身分」の上での「自由恋愛ができないよ」というやつ。



 実態は、調査すればするほど違うんです。


 
 今、Y家とH家の周辺で言ってたのは、「農民同士」の話です。江戸時代の身分で言えば。


 つまり、職業身分というヒエラルキーがあったのではない、というところがポイント。


 士族だから偉いとか、農民だからあかんとか、そういう単純な見方をしていると、この日本の実態は把握できません。



違うちがう、そこじゃない。




 たとえば、Y家は、江戸期に庄屋だった、つまり


「帰農した戦国領主であった(本貫地を持っていた)」


から家柄がよくて、H家はもとから農産物を作ってますが


「朝廷から許可された山林土地を持っていた(本貫地を持っていた)」 


から家柄がいいという発想なんです。


 赤松家とておんなじ。


「多可郡野間に城と領地を持っていた(本貫地を持っていた)」


から、


Y家やH家と同格に扱われる=婚姻ができる


という図式になっているわけです。


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 こうしてみてゆくと、近世以前の「氏族」のありようがはっきり見えてきます。そこには「農民だから」「武士だから」という観念はありません。たしかに江戸期には政治上「そういう身分におかれた」ことは事実ですが、氏族の中には脈々と


まさに「家柄」=我々はどういった経緯を持つ氏族なのか


を問う感覚が根強く残っていたことがわかるわけです。そして、それは、端的にいえば



「土地を持っているのかどうか」



に帰着します。だからこそ、人々はその土地に関わりのある苗字をつけたのでしょう。



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 個人的には、こうした旧来の「家柄」感覚は、いよいよ現代になるとほとんど何の価値も持っていないと思います。

 現代においては家柄がいいと金持ちだとか、家柄がいいとよい就職先にめぐり会えるわけではなく、あくまでも本人の能力と努力次第だからです。


 しかし一方で、家柄・出自に関係ない社会が、「地縁や血縁」をだんだん解体していったことも事実で、そのせいで地方が疲弊したり、限界集落が生まれたりするわけで、難しいところ。


 ここの辺りは、一度じっくりと考えてみないといけないですね。











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