2015年1月14日水曜日

<調査中・99>姫路近辺の大塚さんへ ~播陽古城記を読む~

 ちょいと故あって


「多可郡誌」

近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978710

GoogleBooks版
 http://books.google.co.jp/books/about/%E5%A4%9A%E5%8F%AF%E9%83%A1%E8%AA%8C.html?id=cARkVCEWJ6cC&redir_esc=y



を読み込んでいたのだが、なかなか興味深いことがいろいろあったので報告がてら筆を執った次第である。

 多可郡というのは、現在の兵庫県西脇市を含んだ一帯で、播磨地方で言えば「北播磨」にあたる地域である。


 もう、このブログではおなじみではあるものの、ネタ的にかなり初期に戻ることになる「播州赤松氏系統」の領域であり、いわゆる「赤松系大塚氏」を含んだ赤松氏の調査対象に含まれるのがこのエリア、ということになる。


 当ブログで播磨の大塚氏に注目していたのは<36>章前後なので、現在すでに<99>章を迎えるに当たってはめっちゃ昔のことのようになってしまったが、当時は真面目に三潴大塚氏のルーツを姫路に求めていたので、懐かしいったらありゃしない。


 (☆結果的に、三潴大塚氏は播磨の大塚氏とは無関係です。ただし、福岡黒田藩領には、播磨由来の大塚氏がいても全く不思議ではありません)



==========


 さて、多可郡誌を読んでいた直接の理由は、このエリアを拠点とした「野間衆(赤松軍団野間在留部隊)」について調べていたからで、野間衆の中心は有田(在田)氏なのだがその周辺までネチネチと調べていた次第。

 ところがそれより面白いものがいろいろ出てきてしまい、気もそぞろといった感じに!!



 そのひとつが「播陽古城記」からの引用で、


黒田庄村

黒田城 城主は黒田下野守重隆 秀吉に属し後徳川家康の代に至り慶長5年筑前福岡城主に封ぜらる。

多田城 城主は黒田下野守重隆嫡子官兵衛孝高 小寺美濃守職隆の嗣子となり姫路城を共に守護せり。


とある。


 ほれほれやってきたよ、播磨黒田氏説!!


 多可郡誌の刊行は大正12年なので、大正12年の時点で当地の教育委員会(発刊元)は江戸中期に書かれた「播陽古城記」に基づいて


「黒田官兵衛は播磨黒田城由来だもんね」ということを基本的には理解していることになる。

(ただし、播陽古城記には、「目薬売りが備前福岡を経て播磨に来た」話は書いていないので、ただあっさりと西脇黒田庄と黒田氏の関係を記しているにすぎないけど)


 ついでにいえば、この記述は、(より詳しい部分に触れているかどうかはともかくとして)荘厳寺本黒田系譜と合致するところが面白い。

 つまり、重隆が「黒田庄の黒田城を拠点」としていて、息子の官兵衛は小寺の柴田恭平の養子になり、二人で姫路城を守っていた、というくだりである。


==========
    
 このあたり、どんどん攻め込んでいくと、興味がつきないので一応これくらいにしておくのだが、私は個人的には

「黒田家譜」(by貝原益軒)

「江原武鑑」(ずばり偽書)

あたりにしか近江出身黒田氏の典拠がないのだとすれば、もういい加減播磨出身黒田氏説で再構築したほうがいいっちゃない?(←福岡弁)と思うのだがいかがなものか。



 それよりも、貝原益軒が、なーんでそんなことを書いたのかのほうに興味があったりして、そこに何がしかの謎が秘められているような気が!!



==========

 さて、のっけから話がズレまくっているけれど、今日のテーマは姫路の大塚さんに読んでほしい「播陽古城記」のお話。


 近代デジタルライブラリ版
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541632


 いいよ~。読んでるだけでわくわくする!


(ちょっと気になるのは、この近デジ版は、多可郡誌の典拠のバージョンとは多少記述が異なるような気がするところ。写本がいくつかあるのだろうか)


 さて、この本の見所を一挙紹介するとすれば、こんな感じ!



 まず、しょっぱなから最後まで 「城主 赤松誰それ」が連綿と続く感じは、この地における赤松一族の隆盛を偲ばせるというもの。

 大河で龍野赤松氏に向かって、「おのれ赤松~」とか言ってましたが、あたり一面みんな赤松なんだってば。




 コマ13にはあの「御着城 城主 小寺政職(片岡鶴太郎)」登場! 「村上源氏 宇野家の末ナリ」なんて書いてあり、ほうほう、小寺氏は宇野氏から続いているのかということがわかる。

 ちなみに、村上源氏から分かれた宇野氏のほうが系図的には先に登場し、宇野を名乗らなかったものの子孫に赤松円心がいることになっている。

 あるいは赤松氏のもとの姓として「宇野姓」が本姓だと考える向きもあるわけで。

 というわけで、いずれにせよ「赤松=小寺」ラインが元来同族的集合体であることがわかるというもの。




 コマ15には、「上野砦 領主 大塚将監」の記述! 赤松氏幕下永正年久。

 これが言わずとしれた後藤又兵衛のお兄ちゃんです。



 コマ19には「三木城 城主 別所長治」登場。羽柴秀吉と確執なんて書いてある。泣けるね。



 コマ20「白山城 書写山 城主 羽柴筑前前秀吉」の記述! 天正五年三月から居座った的な。

 
 コマ27はいよいよ「姫路城」大トリ!なのだが、いろいろ記載が面白い。


 ”文明元年に置塩城に赤松政則が移った。そこでこの城は小寺伊勢守豊職が入り、その子加賀守則職、その子美濃守職隆、その猶子美濃守祐隆が相続して守っていたが、羽柴秀吉がこの国に入ることになり、小寺祐隆はこの城を勧め、自分は妻鹿の国府山へ移動しその子孝隆まで妻鹿に住んだ。”


 んんんん???


 ・・・どーもこの版でも、柴田恭平の養子として「美濃守祐隆」なる人物が姫路城に入ったことになってるのであるが、問題は「祐隆の子、孝隆」と書いてある部分である。



 一般的には、祐隆=官兵衛の前の名前とされているのだが、どーもこの播陽古城記では


 あぶない刑事の養子になったのは、官兵衛のおとん、みたいな解釈になっている。やや面白い。


 なんぼなんでも、祐隆=官兵衛だとして、その子孝隆は長政であろうはずがないので、まさにこの辺は、資料によって錯綜しまくりということで。



 ちなみにこの播陽古城記を書いたのは


「赤松支流浪士某 これを誌す」


だそうです。うっ。私とキャラが似てる・・・。


 いやあ、歴史って本当に難しいですね。さいならさいなら、さいなら。






0 件のコメント:

コメントを投稿