2014年10月3日金曜日

<話題>元寇船見つかる?!蒙古襲来、その時大塚氏は?!

 ちょっと面白いニュースが飛び込んできました。


元寇船見つかる?!
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141003-00010000-nagasaki-l42



 元ネタは長崎新聞さんです。長崎県松浦市鷹島沖の海底で見つかったのはなんと


「元寇」


で中国大陸からやってきた船だというから驚き!


 まだ、本当にそうなのか調査中段階ではありますが、気になりますね~。


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 というわけでおさらい。元寇、つまりモンゴル帝国の日本への侵攻は2回。

文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、弘安の役(こうあんのえき・1281年)と呼んでいるのはご承知のとおり。


 これは日本からみれば「鎌倉時代」のお話で、鎌倉幕府の源将軍家はすでに凋落、執権の北条氏が実権を握っている、という状態でした。

 モンゴルがやってくるらしい、という大慌ての日本側は18歳の北条時宗を執権として対応しますが、実はそれまで日本人はまともに外敵と戦ったことがありませんでした。


 というわけで、一度目の蒙古襲来では対馬・壱岐の人たちは壊滅状態にさせられ、そのまま蒙古軍は九州へとやってくることになります。



 ウィキペディア 元寇
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87



 資料を見ると日本側の総司令部がよくわかります。

  鎮西西方奉行 少弐資能
  鎮西東方奉行 大友頼康
  西方奉行一門 少弐経資
  西方奉行一門 少弐景資
  肥後御家人 菊池武房
  肥後御家人 竹崎季長
  肥前御家人 白石通泰
  肥前御家人 福田兼重
  豊後御家人 都甲惟親
  豊後御家人 日田永基


 このブログではおなじみ「少弐・大友」氏や肥後の菊池氏、豊後の日田氏など、見慣れた名前が出てきますね。


 少弐経資という名前が出てきますが、この人物の孫が少弐貞経であり、貞経の息子から大塚氏が始まりますので、まだこの段階では少弐系大塚さんは生まれていません。

 しかし、ここで少弐経資が蒙古相手に奮戦したので、今の私がいるかもしれない、というわけです。


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 で、二回目の襲来の時の日本側のメンバーをまた引用しましょう。

鎮西(異国征伐)大将軍 北条実政

諸将
  鎮西西方奉行 少弐経資
  鎮西東方奉行 大友頼康
  西方奉行一門 少弐資能
  西方奉行一門 少弐景資
  西方奉行一門 少弐資時
  関東御使・軍奉行 合田遠俊
  肥後守護 安達盛宗
  薩摩守護 島津久経
  筑後御家人 香西度景
  豊後御家人 都甲惟親
  豊後御家人 都甲惟遠
  肥後御家人 竹崎季長
  肥後御家人 菊池武房
  肥前御家人 福田兼重
  肥前御家人 福田兼光
  肥前御家人 山代栄
  肥前御家人 龍造寺家清
  肥前御家人 龍造寺季時
  肥前御家人 藤原資門
  肥前御家人 船原三郎
  薩摩御家人 島津長久
  薩摩御家人 比志島時範
  伊予御家人 河野通有


 ほーら、出てきましたよ。島津やら、龍造寺やら。こういうリストを見ていると、このあとやってくる戦国時代の礎は、鎌倉時代に既にあることがわかります。


 なぜ、元寇を迎え撃つメンバーと戦国武将軍団が関係してくるかと言えば、簡単にいえば


①朝廷・幕府から蒙古を迎え撃つように指令されたメンバーは必死に戦ったのに


②朝廷からは恩賞をほとんどもらえなかった(海外の敵を追い払っただけなので、土地等が手に入らないから)


③不満を持った武将たちは、幕府のいうことを聞かなくなる。→鎌倉幕府滅亡へ


という流れ、


実際には、このあと「南北朝の動乱」(と室町幕府)というややこしいのをひとつかまして、戦国へ突入するわけですが、なーんとなく


「黒船がやってきて江戸幕府滅ぶ」


と似てますね。やはり海外からの侵略などの危機的状況で、それまでの政府のほころびが露呈する流れは同じなのかもしれません。


 

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