毎度おなじみ、NHK大河ドラマ軍師官兵衛ちゃんを徹底解剖する連載の時間です。
今日の官兵衛ちゃんは、官兵衛の隠居の話、茶々の懐妊と出産、北条氏の動向、などをあっさりとまとめつつも見ごたえのある人間模様に仕立て上げてあります。
毎回、上手に脚本をまとめてくるなあ、と感心しきりなのですが、長政が家督を継ぐと、いつのまにか思慮深く見えてくるから不思議なものです(^^
これまで、当ブログ記事では、官兵衛ちゃんにいろんな「チャチャ」を入れながら書いてきたのですが、今回は、
・・・つ、突っ込みどころが、あまりない!
と茶々懐妊に免じて真面目に進行いたしましょう(笑)
その前に、小さなお楽しみ。まさかのAMEMIYA2週連続クレジットです!
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あんなこんなウワサ話もあり、隠居を決意した官兵衛ちゃん。実際に隠居できるのは、もう少し後ですが、家督を長政に譲った後は、秀吉の側近として「京都」にずっと滞在したようです。(京都市に如水町という地名もあります。となりが小寺町なのですが関係あるのかな?)
さて、いよいよ話が出てきた「小田原の北条氏征伐」ですが、ここにあの名作
「のぼうの城」
が関係してきます。
のぼうの城「成田氏」が守った忍城(おしじょう)は、小田原城の支城であり、映画でご覧になれるとおり、
「先に本城である小田原城のほうが落ちてしまった」
という状況。小田原勢で最後まで落ちずに残ったのが、あの忍城というわけ。
ぜひ、官兵衛ちゃんと合わせて「のぼうの城」も見てね!!!
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のぼうの城と大塚氏の関係については、当ブログの以前の記事でもとりあげていますので、復習もね!
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/03/blog-post_14.html
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/07/blog-post_8090.html
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ついでといってはなんですが、小田原攻めのちょうどこの時期、関東一帯には
「関東髑髏党」
という謎の一団が暗躍しておりました。
この関東髑髏党に追われていた一人の少女を助けてしまったのが、謎のおっさん「玉転がしの捨の介」。
関東髑髏党の首領と、捨の介にはなにやら因縁がある模様。
行きがかり上、髑髏党と戦うことになった捨の介は、これまた謎の髭おやじ、浪人「狸穴二郎衛門」とともに一大アクションを繰り広げるはめに。
捨の介、二郎衛門、そして関東髑髏党の首領「天魔王」の正体とは?!
・・・というのが、実は歴史的事実ではなく、フィクションのお話。
そう、劇団新感線の大ヒット作「髑髏城の七人」でございます。
関東髑髏党の首領の名前は”天魔王”ですから、歴史ファンなら、その正体にピンとくるはず!
のぼうの城の裏で、こんな事件が起こっていたのか!とハマること間違いないので、ぜひこちらもご覧くださいまし(^^
古田新太バージョンと、市川染五郎バージョン、小栗旬バージョンがあるのですが、やっぱり私は古田新太バージョンが・・・(笑)
自分的突っ込み
返信削除>そろそろ主要人物自らがアチコチ出張るのは止めてほしい
家康自ら小田原城に出向くのもありえないけど、
何で下座なんだ~ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.
茶々の妊婦様には受けたけど^^
でも我儘も可愛いのが惚れた弱みなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
なるほど、その視点は面白い!
返信削除最初、北条と家康が会話しているシーンをみて「ん?これ何の会話してんの?どういうシュチュエーション?」と思ったのは正しいかったのですね!
家康と北条は家康次女・督姫が北条に嫁いで縁戚関係。
返信削除嫁いだのは戦における和睦条件だったからで、降伏したわけでもなければ家臣でもない。
だから小田原城へ家康自身が赴き更に上下の席で対面するのは戦国外交上有りえない場面です。
更に当時既に家康は従三位参議であり左京大夫の北条を超えてます。
もっというなら北条氏政は家督を息子に譲った隠居の身で、かたや家康は現役当主。
それを下座におくなんて三河武士が見たらブチ切れます。
では北条が家康の下か?となると、またまたややこしい。
関東の覇者である北条家は動員兵力だけなら徳川より上回っています。
関東古河公方なきあと官途補任により権力を掌握・・・つまり関東~東北武家社会における頂点にいます。
こうなってくると外交儀礼上、上下がどっちかなんて判断できません。
ですから上下のない茶室や、しかるべき寺院、または砕けた酒宴などで、同座するのが一番無難で、実際の史実における両者の対面(天正14年)も、そのようでした。
のぼうの城・・・・あれは劇場に2回足を運びました(*´pq`)
返信削除時代考証のデティールがしっかりしてて素晴らしかったです (人´∀`).☆.。.:*・
のぼうが降伏勧告にきた豊臣(天下人)の将に対し上座にいました。
本来であれば関白派遣の将に対する礼ではありませんが、
将の方は下座ではなく床几に座ることで、のぼうの下座ではなく対等にしています。
こういう感じの武家の序列をキチンとしてほしいって、やっぱマニアに贅沢な望みなんでしょうか(´・д・`)
時代考証の先生は、大河での儀礼ヘンテコリンは当然御存知のはずですよ。
そもそも小田原に家康自身が出向く自体が大河の創作なんですから。
でも視聴者への判り易すさが最優先のなかで、細かい時代考証は無視されてるんでしょうね・・・ショボーン..._φ(・ω・` )
長々と愚痴まじりのコメントして申し訳ありません(´;ω;`)ウッ
家康が徳川政権を維持できたのは、上座・下座をはじめとした「位置関係」を諸大名に明確に提示して、それを崩すことができないように制度化した所が大きいように伺います。
返信削除城井氏の時にも思ったのですが、城井軍VS黒田軍の実情は合戦そのものなのに、「一揆」というちょっとぼかした言い回しが使われるのは、「誰が君主で誰が臣下か判定されていない時は対等なので合戦でもあるが、城井VS黒田はどちらも秀吉家臣なので合戦たりえようはずがない(惣無事令の法の下にあるから?)」ということなんでしょうかね?
つまり、戦国から江戸期への移行における重要なツボとして「誰がえらいのか」が明確化された、ということでもあるのでしょう。ちがうかな?