2014年9月11日木曜日

<妄想>この国を作ったのは信長だ?! 戦国から読み解く現代日本のあれこれ

 大河ドラマが「軍師官兵衛ちゃん」だからか、最近NHKで戦国がらみのネタをいろいろやってくれているのでつい見てしまいます。


 たとえば、歴史ヒストリアで「関が原の農民から見た合戦の様子」を取り上げていたり、タイプスクープハンターで「武将の手柄とは」というテーマでリサーチがあったり。


 現代の日本人からすれば「へー、ほー、ふーん」な遠い昔の話のように思いますが、実は私は


 現代日本は、戦国時代を引きずっている?!


という大胆な仮説を根に持っています(笑)




 逆の言い方をすれば、


 現代日本のありようを作ったのは、実は信長様だ?!


 とまで言えるかもしれません。


 これはもう、「第六天魔王」を祀らねばならないほどです(爆)



 
 そんな冗談はさておき、なぜ現代日本が戦国時代の影響下にあると言えるのか、ということをちょびっとだけお話してみたいと思います。




 たとえば、私は中高時代のみ「織田家」の領地で過ごしていたのですが、(つまり織田藩のエリアに住んでいたということ)、面白いことに、その町はど田舎村にあるのに、その地区の高校は県内でも最も歴史が古い学校のひとつであり、早くから旧制中学や女学校が整備されていたのです。


 それから、近隣の市町村に比べて、なぜかど田舎村のその町に「県の総合庁舎」があり、県の土木事務所の出先機関があったり、地方裁判所の支部があったりするのです。


 ということはつまり、県や国の重要出張所が、他の地域を差し置いてなぜかその町にある、ということになるわけです。


 なんでか?!


 歴史的には、織田藩が「徳川家の主君筋」であるからに他なりません。


 簡単に言えば、現代の県と市町村は、江戸時代の藩のエリアに準じて制定されており、行政機構もその影響下にあります。

 そして、各地域が特に行政上の重要度において序列化されており、その序列のもともとの基準は、徳川家との関係にあると言っても過言ではないわけです。


 もちろん、経済社会になってからは、港があったり、工場ができたりして、経済的により発展してしまった町はいくらでもあります。


 それでも行政上は、それらの振興都市よりも「徳川的親藩・譜代市町村」のほうが優遇されているという不思議があったりするわけです。


 
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 これらのことは、実はあんまり紹介されたり、議論されたりしていません。ちょっとした現代史の謎だったりします。


 さて、徳川時代の影響を受けている、ということはその礎はつまり、戦国時代にあるということにもなります。


 以前、このブログでもお話しましたが、最終的に豪農・庄屋などとして農地を現地支配したのは、元々は直接領有していた「戦国武将」たちでした。それは、天下統一以降の「近代大名」たちのような転勤制度とは違い、天正15年前後で固定化された戦国イス取りゲームの勝者?たちだったということです。


 その後の江戸時代300年間は、天正15年で「はい!そこでストップ!」となった身分や地域が、そのまま冷凍保存された期間だった、ということになります。



 では、その冷凍期間が終わったら、日本はどうなったのか?


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 最近、もともとうちの奥さんが「新撰組」ファンだったこともあって、幕末期の状況について書物を読んだりしているのですが、面白いことに気付きました。


 私は、坂本龍馬がどうのとか、池田屋がどうのとか、あんまりそこらへんの「幕末の志士ネタ」に食いつかない方なので、アレなのですが、一般的に議論されないところに興味が沸いております。


 それは何か?!


 ・・・なぜ、薩長土肥なのか!


ということです。


 明治以降の日本、この薩摩・長州・土佐・肥前出身者が政治を動かしてきたことは紛れもない事実です。

 でも、なぜ薩長土肥なのでしょう。


 「軍師官兵衛ちゃん」を毎週ご覧になっている方は「ん?」と思われると思います。


 薩摩・・・島津家。

 長州・・・毛利家。

 土佐・・・山内家。

 肥前・・・鍋島家。

 

 なーんとなく、わかってきました?


 そう、いずれも天下統一まで「反信長勢力」の雄だったところなのです。そして、いずれも


 中国以西の西日本


エリアの諸藩ということになります。まさに官兵衛ちゃんが攻略したエリアです。


 これは単なる偶然なのでしょうか?!


 現代日本とは、信長の亡霊に対するアンチテーゼだというのです!



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 もうすこし詳しいことを見てゆきましょう。


 薩摩藩はいわずとしれた島津氏の領地であり、秀吉軍(官兵衛ちゃん)に攻められるまで抵抗を続けていた最後の「反信長勢力」でした。



 長州はこれまた「あの」毛利の最後の領地です。中国地帯を全て手中にしていた毛利一族ですが、のちにいろいろあって長州だけを与えられて過ごすことになっていました。そして、毛利を攻略したのは、これまた官兵衛ちゃんです。



 土佐は、少し説明が必要です。山内家はあとから入ってきたのですが、もともと四国を治めていたのは「長宗我部氏」です。ところが、四国はこれまた「官兵衛ちゃん」に滅ぼされてしまい、いろいろあって、長宗我部は土佐のみ領地とされます。

 その後、土佐藩は関が原以降山内氏の領地になりますが、そこに長宗我部旧家臣が山ほど残留している状態となり、土佐藩は手を焼きます。山内氏は、藩政のうち上層部を山内系で占め、郷士という形で長宗我部系を一応藩政に組み込みつつ差別します。

 土佐藩は、おそらく藩士内での上下関係が一番厳しく、下士は上士とすれ違うときは土下座せねばならないほどでした。

 坂本龍馬たち「下士」が幕末を大きく動かすのも、このことに関係があります。つまり、土佐は「長宗我部」の遺志で動いているわけです。



 肥前は、我らが鍋島藩ですが、島津と並んで少弐・龍造寺・鍋島と続く純粋培養九州人です。大河ドラマではスルーされましたが、もともと信長とは無関係で独立していたのに、九州動乱の渦の中で秀吉側に恭順してゆくことになりました。


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 こうしてみると、意外な背景が明らかになってきます。


 信長の戦国時代とは、中部地方から関東、北部へと延びてゆく天下統一戦線。

 秀吉の戦国時代とは、中部地方から関西、九州へと延びてゆく天下統一戦線。

 家康の統治とは、関東を軸足とした全国支配。


だったことがわかります。


 それに対して、明治維新は


「中国・四国を中心にした、反信長・秀吉・家康運動」


と考えることも可能です。

 
 それは、


 信長以前の状態に戻す運動


と言っても過言ではありません。


 だ・か・ら、朝廷(皇室)が出てくるのです。


 
 そう考えてゆくと、面白いでしょ?!

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