2014年9月25日木曜日

<調査中>香川県の大塚さん 讃岐生駒家と大塚氏

 全国の大塚さんをめぐる調査も、徐々に進んでいる今日この頃ですが、香川県・讃岐地方に詳しい方から


讃岐生駒家の家臣の大塚氏


について情報をいただきました。


讃岐生駒氏の状況は、ウィキペディア「高松藩」の項でちらりと予習しておきましょう。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%BE%E8%97%A9


ざっくり言えば、天正15年(うーん、戦国時代でいえば、末期ですな)に秀吉から讃岐を与えられ、そのまま江戸初期まで讃岐を支配したのが生駒氏、ということになります。



 さて、情報をお寄せいただいた方からは、生駒家の分限帳を紹介していただきました。


生駒家家臣分限ノ記
http://kousakashikenshoukai.blogspot.jp/2010/10/blog-post_1559.html


これによると、生駒家臣には


大塚采女  500石


大塚茂左衛門 500石


大塚亦市 10人扶持


の3名の大塚氏が存在したようです。


 というわけで、ではこれらの大塚氏のルーツがどこか?!ということが当ブログの調査内容になるのですが、ここからなかなか面白くなってきます。


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 香川県、讃岐国に縁のある「生駒氏」ではあるものの、生駒氏にとって讃岐は本領ではありません。

 じゃあ、どこからやってきたのか?というとこれが面白い。



ウィキペディアより「生駒親正」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A7%92%E8%A6%AA%E6%AD%A3



 生駒氏の初代は、この生駒親正のおとんである、生駒(もと土田)親重なのですが、この一族はそもそも美濃国の氏族です。


 美濃ですので、当然織田家に仕えることになり、また秀吉に仕えるようになるわけで、秀吉から讃岐を与えられる、という一連の流れに繋がってゆきます。


 実は、美濃地方に「大塚」姓がいくつか存在していて、織田信長の直接の家臣にも何人かの「大塚氏」が存在していることがわかっています。


 さて、ここでウィキペディアをじっくり読みましょう。


 親正が讃岐を受領するに当たり、讃岐国の前領主である十河氏の嫡男を「甥の大塚采女に命じて毒殺させた」との記述。


 なるほど、生駒氏と大塚氏は親族だということですね。かつ、大塚采女、ここにも登場です。


 生駒氏と大塚氏の関係は、こんな記事を発見。

(ちょっと原典がわからないので、要調査ですが・・・)



 えんちゅるでぃげん爺が三食繰言 さんのブログより引用
 http://d.hatena.ne.jp/muxia/20100426


『本能寺の変で討死した大塚又一郎は実名を正光といい、生駒親正の女婿であったという。又一郎の子、大塚采女正三正は生駒家に仕え、田辺城の戦いなどに参陣している。』



 なるほど、あの大塚又一郎の子が大塚采女であり、生駒家と親戚になったということですね。



 あの大塚又一郎が、どの大塚又一郎かわからなくなっている人は、以前の記事をどうぞ。



 <調査中>織田信長と大塚氏
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/05/blog-post_13.html



ということは、生駒家臣の大塚氏と織田家臣の大塚氏は同族という可能性が高いわけで、ルーツはやはり岐阜近辺と考えるのが妥当だと思います。


 生駒家は、讃岐に入ったあと、実は御家騒動を起こして秋田県矢島町にひっそりと飛ばされるため、もしかしたら大塚氏の子孫の一部がそちらに行っている可能性もあります。



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 ちなみに、讃岐生駒氏に属した大塚氏については、もう一名名前を見つけました。



香川県埋蔵文化財調査センターだより より
 https://www.pref.kagawa.lg.jp/maibun/inishienosanuki/inishienosanuki31.pdf#search='%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E9%87%87%E5%A5%B3'


 これによると大塚采女の家のとなりに「大塚八右衛門」の家があったそうです。




というわけで、香川県の大塚さん!家紋教えてください!



3 件のコメント:

  1. 太丸に切竹笹です。曾祖父さんが香川から北海道にきました。

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  2. 香川に住む大塚家の者です。采女の末裔で、家系図と生駒盛衰記を所持しています。家紋はけんなしのカタバミです。

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  3. なお 十河の嫡男は病死との資料が残っているが、草薙金四郎が悲劇的なドラマ性を持たせるため、噂としてあった毒殺説を
    採用した。毒殺は史実ではなく、草薙金四郎の脚色です。
     大塚家自体も滅んでいるかのように語っていたため、父が抗議し訂正を求めたが、拒否された。

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