全国の大塚さんこんにちは。
大塚探しの旅がすこし停滞していましたが、面白い記述を発見したのでレポートです。
うちの父親は、まだ私が生まれる前の若い頃に長崎県で働いていた時期があるのですが、ワタクシもつい最近「戦国調べ」を始めるまでは
長崎県が、実は昔から長崎県ではなかったという事実
については、あまり知りませんでした。
いやいや、それを言うなら、兵庫県だって、摂津の国とか播磨の国だし、東京だって江戸だし、当たり前の話なのですが、そういうニュアンスとはちょっと違いますね。
そう、言い換えるなら、長崎県は独立したエリアだと思っていたけれど、どうもそうではないっぽい、ということを知らなかった、ということです。長崎のみなさんごめんなさい。
長崎県というエリアは、古来の感覚では「肥前国」「壱岐国」「対馬国」であり、現代人から見ると、
なるほど、佐賀と長崎は、ある意味一体のエリアだったのね
ということになります。
逆に、対馬や壱岐は、今の「離れ小島」のイメージとは違い、もっともっと独立したエリアとして存在していました。
このあたりが、予習のお話です。
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さて、今回の本題は「長崎の大塚さん」、それも壱岐の大塚さんに注目です。
壱岐というのは島です。もともと壱岐国として、律令時代から独立エリアだったのですが、この地域は大陸、朝鮮半島とも近く、外交的にもいろいろありました。
中世から戦国時代にかけては、「松浦党」という武士団の支配力が強まり、肥前から壱岐・対馬ににかけては水軍としての松浦党の拠点となってゆきます。
☆ここでワンポイントメモメモ☆
水軍、といえばやっぱりベストセラー「村上水軍の娘」で有名な村上氏です。村上氏は瀬戸内海で活躍した海賊衆ですね。
それから「九鬼氏」の九鬼水軍は志摩国鳥羽を拠点としました。ラッコです。信長の配下になったので織田水軍とも呼ばれる一団で、秀吉の朝鮮出兵にも同行しています。
安宅水軍というのも忘れないで下さい。淡路島を拠点とした淡路水軍です。安宅船、という軍船がありますが、その名前の由来となったという説もあります。
大トリはやはり「毛利水軍」です。NHK大河ドラマ軍師官兵衛ちゃんでも、たびたび名前だけ登場します。中でも「小早川水軍」なんて部隊もあり、これはあの小早川隆景が率いていました。
水軍たるもの、ある武将について戦っている時はその軍団の兵士ではありますが、海を拠点としたならず者という意味では海賊の側面もあります。このあたり、なかなか複雑な経緯を持っていますので、詳しくは
パイレーツオブ瀬戸内海
とか
パイレーツオブ東シナ海
という映画を作りたいぐらいです(笑)
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脱線しましたが、壱岐の大塚さんの話です。こんな資料を発見!
壱岐国牛まつりの資料より
http://wrs.search.yahoo.co.jp/FOR=Q3rHx1RV3ijNYLA13p4OSAfd27WcD9qddFuKMbpFifVsc1_jfodXmtbvkt8Jz1mqnDz108QGucr0w8sUZ8Oewq.J6sGZQ2.N4u3RKnqT69WxYp8WWGItyjkzR.MADRhy7WhpTp6VG5SKsXxzslpyjui16zqzmsOUPi1xYTda0nbR1zXfHncANRDyBKfErCz4TcTMQwoPz3YGYAkRaxo2166lIx45zNY8CvbhgZXjgqR8Z615hHc40tVa3QmgLUKTE6yGW83EEisoGN39SNC9Ch02VxiNrYcGYObDs29c9bbs7RcNevsPz3bv1GjQMOToTALlVJSL_yLEdwgOjhWKYgwGrmA9oZWnZGlkeA--/_ylt=A7dPLVazWD9UbF0AJsGDTwx.;_ylu=X3oDMTEydDlobzMyBHBvcwMxBHNlYwNzcgRzbGsDdGl0bGUEdnRpZANqcDAwMTI-/SIG=152v46d73/EXP=1413538419/**http%3A//www.city.iki.nagasaki.jp/common/fckeditor/editor/filemanager/connectors/php/transfer.php%3Ffile=/uid000057_797575736875755F30322E706466
これによると、
壱岐市郷ノ浦町の津神社について
「時は寛文12年(1672年)牛の疫病が壱岐島に大流行した為、これを食い
止めようと上代三浦十郎兵衛・大塚十右衛・郡代中島加々衛門・中原弥佐衛門が相談し
て、疫病退散の祈祷が行われ、牛神といわれる素蓋鳴尊と大国主命をお招きして、疫病
退散の祈祷が行われ、牛神が祀られた」
とあり、壱岐平戸藩あるいは、その関係者に「大塚氏」がいたことがわかります。寛文時代は江戸期でも早いほうですから、戦国時代の名残がまだ残っているはずです。
この大塚氏が少弐系なのか、それとも違うのかは、現時点ではわかってはいません。
当方の調査では、おなじ肥前でも東側(肥前のくまモンエリア)は段々と解明されつつありますが、現長崎方面はまだまだです。
このネタ、追加情報があればまたお知らせします。
というわけで 長崎県の大塚さん!ご連絡待ってます!
ついに西肥前までリサーチが及んだのですね^^
返信削除長崎は長崎自体が有名になっちゃったから、自分も肥前って言われてもピンとこないです。
昔の地理感覚だと、島原半島あたりは「南肥前」と呼んでました。
西肥前~南肥前の中世~戦国史料は北肥戦誌でも欠落が多いので難儀してました(-ω-;)ウーン
情報が集まりますように^^
長崎、難しいですね~。江戸期に入ってからも出島があったりして直轄だし、調べてみると「日田天領の役人が、長崎に出張したり」とかけっこうしてるみたいで、いわゆる地場の≪肥前≫とはちょっと別格だったのかな~、と思います。
返信削除肥前、奥深いです(笑)