2014年7月7日月曜日

<77>大塚(おおつか)?犬塚(いんつか)?それが問題だ。

 「北肥戦誌」を読んでいるあたりから、


 私の心を悩ませる、にくいあんちくしょう


がたびたび登場するのだが、どうしてくれよう。



 そうである。私の名前は「大塚氏」、彼の名前は「犬塚氏」、筑後の名族「犬塚氏」がちょろちょろ、ちょろちょろ目の前を横切っているのである。




 ちなみに、我々文学部卒業生というのは、古文書を当るときにかならず


 間違い


がないかどうか気をつける。


 そう、読み間違い、書き間違い、写し間違いである。現代的に言えば、誤植だ。



 肥筑地方に「大塚氏」と「犬塚氏」が同時期にうろちょろしているものだから、そもそも書き誤りがあったり、翻刻の際にミスがあったり、活字を拾うときに誤植があったり、いろんな可能性がある。



 だから、今回は、大塚VS犬塚の比較対照スペシャル!を開催したい。


 
 ちなみに犬塚さんは、中世においては「いんつか」と発音されていたらしい。現在、三潴には「羽犬塚」というJRの駅があって、「はいぬづか」と読んでいるが、もともとは


「はいんつか」であり、あるいは原義は「灰塚(はいんつか)」


ではないか?との説もあるとか。


 もひとつちなみに「犬塚氏」というのは、蒲池氏の庶流で、三潴郡犬塚を本拠とした一族だが、蒲池氏から独立して少弐氏の家臣となり、最終的には龍造寺の家臣となった。



 ね?ややこしいでしょ?



 少弐系-龍造寺系大塚氏と少弐-龍造寺系犬塚氏がいるわけ。それも同時期におなじような地域で痕跡を残しているものだから、間違いが起きてもしょーがないのである。



 ウィキペディアより 犬塚氏
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E5%A1%9A%E6%B0%8F



 おまけに、ウィキを見てもらえばわかる通り、犬塚氏の通字は「家」で、この間紹介した「少弐子孫大塚氏の通字も「家」なので、(両家とも、名前に”家”がつく)



 いやがらせかなんかですか?



とつい怒りを覚えてしまう。


 気をとりなおして、いきましょう!


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【北肥戦誌】

『嘉禄元年乙酉、宇佐八幡の遷宮に大宰少弐に任じけり。是より以来、武藤少弐の家始まりて、九州には肩を隻ぶる者もなく、子孫次第に繁栄し、朝日・窪・出雲・平井・馬場・山井・志賀・大塚・加茂・吉田と名字を分かる。一門各々肥・筑の間にはびこって大勢の者なりしかば、』




【三瀬町史】

『天文の頃、肥前の国では、少弐冬尚の威勢が衰え、佐嘉に龍造寺氏、山内に神代氏、蓮池に小田氏、その他、筑紫・横岳・八戸・高木・江上・姉川・馬場・本告・千葉・大塚・後藤・大村・有馬・深江・松浦党の諸氏が』

添付図 

<鳥栖>朝日氏・筑紫氏
<三養基>馬場氏・横岳氏
<神崎郡>神代氏・少弐氏・執行氏・江上氏・犬塚氏・姉川氏・小田氏・本告氏・太田氏・石井氏
<佐賀市>龍造寺氏・高木氏・鍋島氏・八戸氏
<佐賀郡・小城郡>千葉氏

等


【佐賀市史】


・・・長いのでまだ読んでない。


【諸富町史】

『永享六年少弐満貞の弟横岳頼房は、少弐氏復興を策し、鎮西探題渋川満直を攻めた”九州治乱記”(北肥戦誌とも言う)には

 翌六年、少弐旧好の輩を相語らうに高木胤秋・千葉胤鎮・龍造寺字季・於保宗親・小田貞光・馬場資幸・江上常種・姉河友安そのほか宗・出雲・筑紫・朝日以下一味同心す

とあり』

『鎮西要略には嘉吉元年に(略)

 肥前少弐一族馬場・横岳・宗・出雲・筑紫・姉河・小田・江上・三根・養父・左嘉・神崎・小城郡々士(略)

とあり』


『享禄三年(略)、少弐党の龍造寺家兼、その子家純、家門、盛家や小田政光(資光の孫)等は、神崎郡直鳥(現千代田町直鳥)の犬塚家清とその子尚家や(略)と大内勢と攻防をくり返した』

『犬塚氏は下野宇都宮氏流で、朝綱六代の孫の久則が筑後下妻郡蒲池に下着し、蒲池を俗称としたという。久則の弟の家貞は三潴郡犬塚(現福岡県三潴郡三潴町玉満)に居住していたが、その曾孫家貞は神崎郡崎村(現千代田町崎村)に移住してきた。少弐氏に組した犬塚家貞は子息を各々分封した。長男家直を崎村城主(東犬塚)、同郡蒲田江城主(現佐賀市蓮池町)に次男家重(西犬塚)、同郡直鳥城主に四男家久を配した。(以上を三犬塚と称す。)さらに五男家喜は川副郷東古賀(現佐賀郡川副町東古賀)に館した。』

『土橋栄益は大友氏に通じると共に、神代勝利・江上武種・小田政光・馬場鑑周や高木・姉川・横岳・本告・八戸の諸氏並びに犬塚鎮尚以下の三犬塚氏など佐賀周辺の諸将をはじめ、』

『天文二十三年、隆信は三根郡綾部城を攻めて少弐冬尚を破り、綾部・犬塚両氏らを降伏させた』


(その他、長者林合戦で隆信が小田・犬塚両氏を救援せず、『やつらはもともと少弐家骨肉の者なので、今は龍造寺に従ってはいるものの、将来はわからない。敵になるかもしれん』と見捨てた話が出てくる。長いので割愛。出典は『北肥戦誌』)

(また、歴代鎮西要略によると永禄八年、江上・横岳・小田・犬塚・筑紫・綾部の東肥前の諸氏は少弐政興を主将として隆信追討に乗り出した話もある。)




【大和町史】

 とくに記載なし。




【富士町史】

『鎌倉幕府は元弘三年(1333)滅亡した。六波羅探題が滅亡すると、少弐貞経・大友貞宗・島津貞久らは博多に置かれていた鎮西探題を攻撃し、探題の北条英時は自害した。肥前の御家人たちの大半は少弐貞経に従って、(略)”鎮西要略”には草野・神代・江上・小田・国分・龍造寺・千葉・綾部等の名を挙げている』

『少弐氏は多くの一族庶家を生み出した。久保(窪)・出雲・朝日・平井・筑紫・筑後・馬場・横岳の諸氏がそれである』

『二十年(略)土橋栄益は、龍造寺隆信の相続には反対で(~略~)豊後の大友義鎮(宗麟)に通じ同志を集めた。集まった諸将は、神代勝利・高木鑑房・同胤秀・小田政光・八戸宗暘・江上武種・横岳資誠・馬場鑑周・筑紫惟門・姉川惟安・本告頼景や三犬塚・多久宗時・有馬の各氏であった』





【川副町誌】

『土橋栄益(~略~は、)豊後の大友氏に通じて、神代勝利・高木鑑房・同胤秀・小田政光・八戸宗暘・江上武種・横岳資誠・馬場鑑周・姉川惟安・本告頼景・綾部鎮幸・朝日宗贇・犬塚鎮尚などの東肥前の豪族を中心とする勢力は天文二十年十月、水ヶ江城を、次いで村中城を囲んだ。隆信は城を明け渡して』

『”天正八年 肥前豊太守龍造寺隆信公、同御長男政家公卿一家并御家中幕下之衆知行附写”(~略~)に、以下龍造寺一門、鍋島・小川(小河)・納富などの譜代の有力家臣団が名を連ね、かつては龍造寺氏と対立した馬場・高木・千布・犬塚・綾部・執行などの各氏の名も見える』





【東与賀町史】

『天文二十年(~略~)、少弐氏の再興を謀る馬場・横岳・高木・姉川・八戸・小田氏などが隆信を佐嘉城に攻めた』

『天正三年(~略~)、(龍造寺隆信は)東肥前の本告・姉川・横岳・犬塚などを従え』





【久保田町史】

『少弐氏は多くの一族庶家を生み出した。久保(窪)・出雲・朝日・平井・筑紫・筑後・馬場・横岳の諸氏がそれである』(中略)『”九州治乱記””歴代鎮西志”などにはその配下の武将として、龍造寺・江上・姉川・小田・犬塚・高木・於保・多久・綾部・本告(もとおり)・千葉などの諸氏の名が出ている』

『”歴代鎮西志”によると、天文十六年(~略~)頃肥前中・東部の宗(そう)・筑紫・馬場・横岳・綾部・江上・姉川・小田・犬塚・空閑・本告・高木・神代・八戸・窪田・徳島・千葉胤頼を一七人衆と称し』

『”九州治乱記”によると、天文二十年(~略~)龍造寺胤栄の家臣土橋栄益は、神代・高木・小田・八戸・江上・横岳・馬場・筑紫・姉川・本告の各氏の支援を受け佐賀城攻撃の準備を進めた』



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はい、結論!


 天文期に「大塚氏に言及している資料はひとつもない」ことから、三瀬村史の「大塚」記載は誤植と判明!


 正しくは犬塚のようだ。きゃんきゃん!



 しかし、「北肥戦誌」に「大塚は少弐末裔」と書いてあり、実際に「大塚系譜」が残っていることから、そのこと自体は誤りではないようだが、


 大塚氏は、豪族(一族)としてどこかの地域を治めていなかった。

 大塚氏は、結束しておらず、少弐系武将にバラバラに従って分散しているらしい。

 犬塚氏とは出自が違うので、そういう意味での混同はあまりされていないようだ。



 ということが伺える。


 というわけで、全国の犬塚さん、仲良くいこうぜ!



2014年7月6日日曜日

<76>武藤少弐大塚氏 系図スペシャル! 親愛なる九州の大塚さんへ

 さて、お立会い!

 九州、肥筑地方に広がっている「大塚」姓、「大塚」氏、「大塚」さんのうち、もしかしたらご先祖様かもしれない?!可能性が大きい


 武藤少弐 大宰少弐 系 大塚氏


の系図スペシャルが登場である。


 この系図は、もともと「大塚系譜」というもので、佐賀藩士として現存する大塚家の系図、ということになる。

 引用元は 渡辺文吉著『武藤少弐興亡史』海鳥社1989 であるが、「大塚氏研究」のために中世期に限って必要最小限を引用、かつ考察を加えるものとする。

※一部略記あり。


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大塚氏  本姓藤原 家紋重釘抜


武藤筑後守資頼より6代

- 頼尚 (大宰少弐筑前守) 

- 直資(新少弐早良次郎)

   冬資(大宰少弐)

   資俊(西筑前守) - 某(西弾正大弼) - 資忠(西山城守) - 資家(西尾張守)


<資家より>

- 俊氏(西三河守)

  嘉吉元年少弐教頼没落の時筑前より当国三根郡大塚村に来たり居、苗字を大塚に改め家紋靠目結を略して釘抜の紋とす。


- 家政(大塚三河守) - □ - □ - □ - 家俊(大塚左兵衛祇園原戦死)

  家郷(大塚左京亮 初め西上総介)


<家郷より>

- 家国(西陸奥守 後に改め倉町上野介家直)

- 頼宗(大塚左京亮 実は馬場伊豆守頼経の子)

   家光(倉町蔵人)


<家国より>

- 家宗(大塚三郎四郎) - 家清(大塚左京) - 盛家(大塚左京)


<家宗より>

- 家房(大塚新兵衛)

   宗清(左兵衛尉) - 氏清(右衛門允) - 為清(久右衛門) - 頼清(与兵衛)


<頼清より>

- 輔清(右衛門允) - 俊清(久右衛門)寛文元年卒



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 嘉吉元年が1441年で、室町時代のこと。

 寛文元年は1661年で江戸時代前期のこと。


 この大塚氏は最終的には佐賀鍋島家臣となるので、


 少弐氏 - 龍造寺氏  - 鍋島氏  と仕えてきたことになる。



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 「北肥戦誌」に、「大塚左京亮盛家」なる人物が、小城勢の中に「岡の大塚左京亮盛家」などとして登場するのだが、


家国のひ孫の「盛家(大塚左京)」


がその人物なのだろうか?


 その他、「小城一揆」メンバーに「大塚左京允」が出てくるのだが、上記系図の大塚氏は「大塚左京亮」を名乗っているので、同系列か?


※「亮(まこと)」「允(まこと)」意味はおなじ。


 とすると、小城衆の大塚氏は、独立氏族ではなく、そもそもは少弐から出た、ということになる可能性あり。




<基礎資料>「北肥戦誌」「九州治乱記」マニアックス ~九州戦国総まとめ~

 当ブログにおいては毎度おなじみの「北肥戦誌(九州治乱記)」ですが、九州戦国時代を語る上では、



 誰もが避けて通ることができない必読の書



となっております。


 事実、九州各地の県誌・市町村誌においては、必ず絶対何が何でも一度や二度や数え切れないほど、「北肥戦誌」からの引用があり、それだけ



 絶大な人気を誇る、九州戦国界の不動のセンター



と言ってよい実力を持った人気者なのです。



 その理由。


 蒙古襲来から秀吉の九州統一までを通時的に追っており、さらにとにかく「読みやすい」のがポイント。初心者でもけっこう読めます。


 基本的には淡々と著述されているものの、時にドラマティックに盛り上がるあたりがツボ。

 
 やたらめったら人が出てきて、マイナーな登場人物にもスポットが当るのが、グッド。



・・・能書きはこれくらいにして、今回の記事は基礎資料なので、「北肥戦誌」情報を一挙大公開です。


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☆ 今回の記事はこれから「北肥戦誌」ファンになりたいあなたのための、入門編です。

 九州にお住まいのあなた!あなたのご先祖もきっと登場している「北肥戦誌」を読んでみてね!



<「北肥戦誌」とは>

 佐賀藩士 馬渡俊継によって書かれた「肥前を中心とする」九州戦国期の通史。

 書かれたのは江戸時代中期であるため、戦国期当時の即時記録ではないが、馬渡俊継は著述に当りできるだけ正確に書くために当時の記録・文書・伝承の収集に励んでいるので、それなりに妥当性がある。



<書名について>

 正式名称がない変わった書物であり、「北肥戦誌」「九州治乱記」など呼ばれる。マイナーな写本になると「覚書(おぼえがき)」みたいなタイトルがついているものも。

 単に「治乱記」とするものや、「肥陽治乱記」という名称もある。


 一般的には(各市町村史誌・県史誌などでは)引用元として「北肥戦誌」の名が広く使われている。



<現在入手できる「北肥戦誌」は4パターン>


 ① 国史叢書バージョン 「北肥戦誌」

   国史研究会(矢野太郎)編 『国史叢書 北肥戦誌』 全2巻 国史研究会1918(大正7)

   東大史料編纂所蔵「鍋島直大蔵本写」を活字化したもの。原本は30巻本。



 ② 肥前叢書バージョン 「北肥戦誌」

   肥前史談会編 『肥前叢書 第ニ輯』 肥前史談会1939(昭和14)

   肥前叢書そのものは第一輯・第二輯と全2巻なのだが、第一輯には
   「肥前風土記・肥前旧事・肥前旧事続編料・肥前古跡縁起」
   が収録され、第二輯に「九州治乱記/北肥戦誌」が収録されている。35巻本。


 ③ 青潮社バージョン 「肥前叢書」全2巻

   肥前叢書全2巻の復刻版、35巻本。 青潮社1973(昭和48)



 ④ 青潮社バージョン 「北肥戦誌」
 
   高野和人編 『北肥戦誌 九州治乱記』 全1巻 青潮社1995

   国史叢書版の写真製版による”完全コピー”に、35巻本からの5巻分を補完したもの。

   従って、30巻分までは、国史叢書版と全く同じ。人名・戦場一覧が付属。

   31-35巻分は、肥前叢書からの再活字化。



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 無料(タダ)で読める「北肥戦誌」

  ネットで、無料で読める「北肥戦誌」は2バージョンあります。



◇ 国史叢書バージョン 「北肥戦誌」 全2巻


  国立国会図書館近代デジタルライブラリー 「北肥戦誌(一)」
  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441745

  
  国立国会図書館近代デジタルライブラリー 「北肥戦誌(ニ)」
  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441746



◇ 肥前叢書バージョン 「九州治乱記/北肥戦誌」


  グーグルブックス 「肥前叢書第ニ輯」
  http://books.google.com.au/books?id=Sbn038p2RPUC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false



 両方あわせると30巻本部分、35巻本部分のどちらも網羅できますよ。



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 無料でできる「北肥戦誌」の人名検索

  青潮社1995版には、人名索引があるのですが、実はネットで無料でできちゃいます。

  高野和人さん、ごめんなさい。僕は一冊買ったので許してください。



◇ 佐賀県立図書館 デジタルライブラリー 人名検索

  http://www.sagakentosyo.jp/jinmeiseek/php/index.php

  

  ※ 主要図書検索から「北肥戦誌」を選んで気になる人名や苗字を打ち込むとあら便利!結果が返ってきます。



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2014年7月5日土曜日

<75>三潴「大塚氏」系譜考補遺② ~神代氏を探れ~

 さて、前回は主に少弐氏に着目しながら、当家三潴大塚氏との関係について考察を深めてみたのであるが、今回は


 神代氏


に注目してみる。


 神代氏を取り上げるのは、もちろん当家大塚氏のご先祖様が「神代長良の家臣、大塚隠岐」なのかどうかを検証するためである。



 もちろん、前回<74>でも言及したとおり、仮に当家大塚氏の直接的先祖が「大塚隠岐」でなかったとしても、当家が少弐氏の末裔である可能性はかなり高い。


 従って、神代氏と当家大塚氏が万一「無関係」でも、それはそれでOKということになる。


 というわけで、今回はちょびっと「オプショナルツアー」でもあるので、気を楽にしていこう!






 神代氏というのは、そもそも久留米の高良神社の神主の家系で、そこら辺りが本拠地であるという話は少し前に書いている。


 ところが、そんなざっくりとした話ではなく、「もっともっと詳しい話」をわかりやすく書いている書物があるので、紹介しよう。


 
 それが、現在は佐賀市に編入されている「三瀬村」というところで編纂された「三瀬村史」であり、三瀬村にとって神代氏は


 スーパースター!


であるらしく、史実・伝説全て網羅して何でもかんでも書いてあるすごい書物になっている。


 当然、三瀬村の人たちも


「全部が全部信じてるわけじゃないし、他の資料との整合性もあるので、そこはほれ、まあ、ほれ、おらが村のスーパースターなんだからいいじゃないか」


というスタンスで記述なさっているので、尊重しよう。しかし、おかげで神代氏については、ものすごい分量でまとめられている。こっちは資料が多い分かなり助かっている。





 佐賀市のサイトより 三瀬村史





 三瀬村史の「神代伝説スペシャル」はPDFファイルのうち「第三章 中世」「第四章 近世」の回に跨る。


 内容をざっくりとまとめると、(中世 109ページから読むとわかりやすい)





◇ 神代氏は、武内宿禰の子孫らしく、久留米高良大社の大宮司である物部氏から分かれた。


◇ かつては熊代と書いたのを神代とあらため、高良周辺を治めていた地方豪族だった。


◇ しかし、神代対馬守宗元が没落し浪人となって旅していたところ、上佐賀の千布村の陣内大和守と出会い、逗留するようになる。のち、神代対馬守の子新次郎が(佐賀)三瀬城の野田氏(三瀬氏)の剣術指南役となり、そのままこの地方のボスへと成長していった。


◇ 新次郎(小泉ではない)あらため神代勝利は、三瀬地域の総領主となり、少弐氏の家臣としてその地を支配するようになった。


◇ 少弐家臣といっても、赤松氏が小寺やら別所やらごちゃごちゃ分かれたように、佐賀一帯は「少弐の末裔たちが独立していろいろケンカするように」なっていた。


◇ その時の各氏族の立ち位置は、120ページを見て欲しい。



(図は三瀬村史より引用)



◇ 少弐冬尚の統率力が衰えた結果、各地は少弐系諸氏が乱立してにらみ合い状態。


◇ ”佐賀に龍造寺氏、山内に神代氏、蓮池に小田氏、その他、筑紫、横岳、八戸、高木、江上、姉川、馬場、本告、千葉、大塚、後藤、大竹、有馬、深江、松浦党の諸氏が”(三瀬村史より)ガチバトル。



ところが、ここで要注意。


◇ 地図を目をこらして見ると右上から

鳥栖 「朝日氏」 「筑紫氏」 

三養基郡 「馬場氏」 「横岳氏」

神崎郡 「執行氏」 「犬塚氏」 「少弐氏」 「江上氏」 「姉川氏」 「小田氏」 「本告氏」

佐賀市 「龍造寺氏」 「高木氏」 「鍋島氏」


・・・等とつづいている。


☆大塚と犬塚は、いつも「誤植があやしい」ので、またじっくり比較やります!


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 クマシロ=スーパースター伝説はまだ続くのだが、ちょっと中断。


 いったん、話をまとめたい。


 大塚氏の位置は、前回出てきた少弐大塚氏の本拠地、


「三根郡大塚村」 (三養基郡をへて現在みやき町もしくは(三根郡)上峰町)


である。


 で、その隣に同じく少弐家臣である「犬塚氏」が神崎郡に陣取っている。


 ややこしいことに、大塚氏の本拠地のとなりに「犬塚氏」がいたのである。

 
 まあ、そこらへんはまたじっくり説明するとして、


 まさか三瀬町史の記事のほうも「大塚じゃなくて、犬塚の誤植だったりしねえよな!」とつっこみたくなる。



 話を戻そう。


 朝日、筑紫、馬場氏などの少弐庶流メンバーは、皆、三養基郡周辺に固まっている。


 そして、北に少弐氏、西に龍造寺氏と鍋島氏、はるか北上して「神代氏」という領地図である。



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 さて、この後の流れだが、平たく言えば


 ザ・スター☆神代勝利 VS 龍造寺隆信(くまもん)


の永遠のガチンコバトルがいつまでも繰り広げられる、という展開である。しつこい。


 そして、神代勝利の息子が「神代長良」で、おとうちゃんの代は、あまりくまもんに負けなかったのだが、最終的には神代長良はくまもんに負ける、という展開へと続いていゆく。長い。




 大事なことは、次の点である。


「神代長良の家臣、大塚隠岐は、どこから来た何者か?」


・・・その答えは、これまでのあらすじを見る限り、やはり少弐系大塚氏と見ざるを得ないのだが、諸君はどのように考察なさるだろうか。


 

 犬塚氏が、ちらちらさっきから横切っている姿があるのだが、そこはちょっと無視して。
 


 歴史的経緯(少弐家臣としての神代氏)、地理的関係、など総合的に見て、「別の大塚氏が入り込む余地」は果たしてあるのだろうか。


 ちなみに、余談だが、鍋島家臣には「大塚姓」はやたら出てくる。「北肥戦誌」しかり、「大塚家譜」しかり、そこらへんの大塚氏は、少弐系で間違いないと考えられる。



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 さて、最後にどうしてもふれておきたいのが、「大塚隠岐は隠居したのでは?」という仮説である。


 「三瀬町史」の159ページ(近世)に面白いことが書いてあるのだ。


 天正4年、原田氏の兵が神代長良たちを襲う、という話があり、そこに


「小副川出雲守、同隠岐守」が討ち死にした


と書いてあるのだ。


 面白い、というのは”隠岐守”という言葉である。


 神代長良の家臣「大塚隠岐守」は永禄8年(1565)年の記事に登場する。

 そして、天正4(1576)年には、神代家中における隠岐守は小副川氏になっている。



 神代長良その人も、天正9(1581)年には亡くなり、その直前天正7年には養子、神代家良(実は鍋島氏)を迎えるのである。



 たたみかけるように書くが、R和尚がX寺を建てたのが天正5年で、「おっかしいなあ、蒲池殺人事件は、天正9年なのに話が合わんなあ」とちょっとした疑問符がついていた。




 古賀伊豆と隠岐が、当家の村に来れたのは、天正5年から天正15年の間と推測しているし、ほぼ間違いない。



 重ねて書くが、天正4年に「小副川隠岐守」が存在する。



 これらの点と線を結ぶ答えがあるとすれば、


 天正4年頃に、大塚隠岐は引退している。あるいは、最前線を離れている。はたまたあるいは、蟄居した。


などの仮説が立てられるのではないか?


 細かいかもしれないが、天正4年・5年頃にも、きっと龍造寺家臣団に何かがあったのだ。


 あるいは大塚隠岐は、この頃「神代氏の中心部」から離れていたのだ。


 引退していたからこそ、三潴に蟄居帰農した可能性もある。裏づけというには弱い証拠だが、


わたし、気になります!


(しつこい)



2014年7月4日金曜日

<74>三潴「大塚氏」系譜考補遺① ~少弐氏を探れ~

 三潴地方の当家「大塚氏」について、とりあえずルーツ探しが「決着」したところであるが、それですっぱり辞めてしまったわけではなく、ボチボチ調査は続行している。


 現在進行しているのは、いわば「証拠固め」の段階で、ご先祖さまが特定されて以来、


 それで本当に正しいのか


 矛盾などはないか


などをゆっくり調べているわけだ。



 当家の大塚氏について、当ブログ「俺ん家コード」的には



 中臣鎌足を始祖として、藤原秀郷流、武藤氏、太宰少弐を経て少弐氏、のち大塚氏、あるいは、神代家臣大塚隠岐を経て当家に至る


と推定しているのは既出。


 なんだか呪文みたいにずらずら並んでいるが、これは家柄のルーツ。DNA的には途切れていることが確定しているので、合わせて申し添えておく。


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 さて、わが三潴大塚氏の直接的始祖が「神代長良」の家臣「大塚隠岐」ではないか?という推測で話はここまで来たのだが、もし万一それが間違っていたとしても、肥筑地方の「大塚」は少弐末裔である、という情報(by北肥戦誌)を信じるならば、大塚隠岐をすっとばしても少弐氏の子孫であるという仮説は成り立つわけだ。


 そこで、今回からの「大塚氏系譜考補遺」では、2つの側面からご先祖さまをおいかけてみたい。






 第74回は、「少弐氏」にスポットを当てる。


 少弐関係の資料は、以外に多くないのだが、最もわかりやすくかつ、必要十分な情報が載っている資料としては、


 武藤少弐興亡史 渡辺文吉著 海鳥社1989


を挙げたい。


 少弐氏関係の資料は、各地にバラバラに存在するが、初心者にも十分わかりやすく一族の流れをしっかりまとめてある良書だと思う。


 この中に、かつて2chで出ていた「大塚氏は少弐冬資の弟、資俊の三代後。大塚資氏より云々」の話の原典が載っている。


 それは佐賀藩士であった大塚氏(現在までつづく)の系譜で、「大塚系譜」なるもの。現代に生きる大塚氏からの提供で筆者が採録している系図も掲載されている。


 まだざっとしか読めていないので、これから詳細を検討するが、少弐氏から分かれて佐賀藩士として続く様子は手に取るようにわかる。


 しかし、これは、簡単に言えば「少弐氏より龍造寺家臣を経て鍋島家臣としての大塚氏」の流れであり、


 神代家臣としての大塚氏


については言及がない。ましてや当家に直接的につながる系図ではないので、詳細は現時点では不明としか言いようがないわけである。



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 神代氏との関係は、次回もう少し別の切り口で見てみるのだが、少弐氏に絞ると面白いことがわかってきた。


 これまで「古賀氏」については、漢の高祖を始祖とする劉姓・大蔵氏族であり、三潴郡古賀に至って「古賀」姓を名乗る一族と見てきた。


 しかし、少弐氏から出た「少弐系古賀氏」という一族がおり、現在は一部が武藤氏に姓を戻しているという情報が入ってきたのである。



 当家の隣村にやってきたという「古賀伊豆」が、あるいは少弐系古賀氏だったとすれば、「大塚も古賀もどちらも少弐末裔」という可能性も生じてくるわけで、さらに面白くなる。



 当家の村と、隣村は古来より密接な連携関係があるのだが、



「馬場・中村・古賀・吉田・大塚」



などの苗字が多く、これらがすべて「少弐末裔の氏族苗字と合致する」ことは偶然ではあるまい。


 いずれの村にも「天正期に竜造寺家臣がやってきた」伝承があり、そして、少弐系苗字が多く分布していることは、当ブログで追いかけてきた当家の由来のバックグラウンドとしては重要な証拠だと考えるわけである。



(つづく)


 
 
 

2014年7月3日木曜日

<調査中>滋賀県の大塚さん 並びに「のぼうの城」の大塚さんも!

 まいどおなじみ大塚某でございます。


 全国の「大塚姓」調査、まだまだ進んでいますが、今日は「滋賀県」に注目!


 滋賀県は、わが大塚家にもほんの少しだけゆかりがあって、バブル以前に何を思ったか「親父が土地を買っていた」ので、もしかしたら今頃滋賀に住んでいたかもしれないという縁です。


 まあ、財テクのようなものだったのでしょうが、つわものどもが夢のあと、既に売り払って久しくなっております。


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 そんな親近感のある「滋賀県」ですが、この地にも「大塚一族」が見え隠れしています。


 滋賀県には、現在も”東近江市大塚町”という地名が残り、そこに「大塚城」なるものがあったとか。



 近江の城郭さんのサイトより
 http://www.oumi-castle.net/second_page/ootuka/ootuka.html



 詳しいレポが上記にありますが「城屋敷」なんて字(あざ)名が残っているところなんて素敵です。

 
 おなじ城ですが、



 歴史さんぽ 戦国山城探訪さんのサイト
 http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/cde18f65ec7f3aa003e9ba2cb63944b5



にも、現在のより詳しい様子が載っています。



 さて、この城の城主である大塚氏は、六角氏の家臣で、のち蒲生氏に仕え、天正12年に蒲生氏が奥州に異動になった際についていった、とのこと。


 
 いつもの「全大塚氏族総まとめスペシャル」によれば、
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html


 <K>大塚氏 近江国蒲生郡大塚村より起こる。寛政譜19 宇多源氏佐々木氏流 〔家紋〕大文字


が、この一族ということでしょうか。


 レファレンス協同データベースには、
 http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000097857


「大塚平左衛門」の名前などがあり、明応八年(一四九九)の『永源寺文書』に名前が出てくるので、年代が特定できます。

 また、天文年間(一五三二-五五)に佐々木定頼のもとで大塚八郎右衛門が湖水の舟奉行をしている旨も出てきており、佐々木氏との関連もありそうです。



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 ところがです。この「大塚氏」は、先にも出てきたとおり、天正期に異動になっているため、武将・武家としての大塚氏は奥州へ行っていることになります。


 この一連の動きと関連するかどうかわからないのですが、ここで気になる発見が。



 ウィキペディアより「菖蒲城」
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%96%E8%92%B2%E5%9F%8E


 

 話は一見、全然ちがうところに飛びます。


 菖蒲城というのは、埼玉県・武蔵国のとある戦国城で、ぶっちゃけ簡単にいえば


 のぼうの城


の成田氏系列の支城です。


 ご存知のとおり、小田原攻めによって、結局「忍城」以外のサブメンバーは完全敗北するわけですが、記事によれば、城主の金田氏は、


 菖蒲佐々木氏と呼ばれ、近江佐々木氏の末裔とされ、


かつ、


 秀吉による関東制圧により廃城後は、帰農して大塚姓を名乗る


とありますから、


「わたし、気になります!」(by 氷菓)


全開ですね。


 近江佐々木系大塚氏が全然別に2系統生まれたのか、それとも、何らかの故があって金田氏は大塚をわざと名乗ったのか!


 一見バラバラの話が、変なところで繋がっているから、気になりまくりです。




 というわけで、滋賀県もしくは、埼玉の大塚さん、家紋を教えてください!!!










2014年7月1日火曜日

<姓氏家系>ルーツ探しの現地調査に同行しました!

 知人が「自分もご先祖様探しに興味がある!」ということで、先日はその方のルーツ探しの現地調査に同行してきました。

 
 幸いなことに、現地というのが、私が住んでいる地域から30分ほどのところだったので、


 「本家訪問と過去帳閲覧」

 「お墓参り」

 「地元図書館での資料探し」


の3点に絞って、調査を実施しました。


 知人といっても、親族筋に当る方なので、本家の方とも、私も顔を知っている間であったため、かなりスムーズにお話を伺うことができました。


 調査内容というのは、当ブログの読者の方にとっては、ある程度おなじみの方法です(^^;



 ① 事前に「戸籍謄本」を取得しておいてもらっておいた。


 ② その結果をもとに、「地縁血縁解析法」を実施。一族の中心となる集落、ムラ名を算出。


 
とここまでは、実施済みだったので、スムーズに事が進みました。


 当日は、


 ③ お墓参り。その方の一族の家祖というべき人のお墓が見つかりました。天正期の記録が墓碑に刻んであり、大発見です。


 ④ 本家で過去帳を拝見しました。天正時代の家祖の人と同一人物かはわかりませんが、「源姓」の戒名が一番最初に来ていました。


 ⑤ 図書館で江戸時代の書物の「翻刻バージョン」を閲覧。近辺ではその図書館でしか収蔵されていない貴重書で、「その村の、その姓の一族について」詳細が載っていました。



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 というわけで、その方のご先祖様が、「江戸時代は庄屋であった」ことが、江戸期の書物に明記してあり、かつ、先祖がおそらく天正期に亡くなったことまで判明しています。


 というわけで430年くらい前まではわかったことになりますので、今後は、そこから先を調査予定です。


 源姓ですので、最終的には源氏→天皇家となるルートが想定できるのですが、そこは慎重に。


 
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 大塚某のやり方だと、基本的に網羅的に調査対象を拾い上げてきますので、その他にも面白いことがわかりました。


⑥ この方の直系ではないですが、ご一族の中で、大正期に関西でも指折りの企業を興した方がおられ、その方を紹介した大正期の資料を事前にゲットしていました。


⑦ 一族の墓地に、なんとその方本人のお墓がありました。お墓は地元に戻っておられたようです。


 
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 今回、同行させていただきましたが、知人の方はたいへん感銘を受けておられました。


 「数多くのご先祖さまがあって、今自分が生きていることのすばらしさを実感しました」とのこと。


 私もまったく同じ思いです。



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 ちなみに、私の場合は「家系図」にはあまりこだわっていませんので、判明分についてはボチボチまとめていますが、むしろ



 ”なぜ、自分は「この名字・苗字なのか」”



というあたりに主眼をおいています。なので、基本的には直系尊属(それも苗字の家系をメイン)に追います。


 これは、「父親の方ばかり」を追うわけではありません。


 というのも、ルーツ探しをはじめるとすぐわかりますが、古い家は、「家を継ぐ」ために、婿養子をもらって「母方で継ぐ」こともよくあるからです。



 なので、大塚方式では、基本的に「苗字のルーツを探る」ことがまず最初になります。



(たぶん、多くの人は、まずそれを知りたいのではないでしょうか?)