しばらく更新が途絶えているのは、資料の到着を待っているからである。
ああ、また書籍にお金をつかってしまった。
「また、つまらぬものを斬ってしまった」
といえば、ルパン三世の五右衛門の台詞であるが、つまらぬものどころか、必要な資料である。
しかし、うちの嫁はんからすれば、次々に届く「古本」に
「またしょーもないもんばっかり買いやがって!」
となるわけで、こちらは恐縮するばかりである。
==========
長きに渡って絶賛お届け中の「わが大塚家の先祖探しツアー」であるが、実はなーんとなく、メドが付き始めている。
そのためにも資料探しに奔走しているのだが、我らの先祖が「赤松系ではないとすれば、たぶんこうだろう」という推理が、ようやくできるようになった。
その全容は、近々お伝えできそうな予感だが、請うご期待、といったところ。
さて、今日はそこへ至る前段階として、また不可思議なデータを見つけたのでそちらを紹介しようと思う。
以前当ブログでもちらりとお話したが、最近私は「地縁血縁解析法」という謎のテクニックを駆使して、自身の家系について分析しているのだが、その中で面白い事象に遭遇したのである。
まずは、当ブログの<51>に立ち戻ろう。
<51>農家 大塚氏の源流?!を求めて!
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/04/blog-post_12.html
この中で、私の一族の出身のムラ(集落)において、一番多い名字が「北島」で、次が「大塚」であることは既に述べている。
そして、ムラの中のとある北島家が地主で、またとある大塚家が作人という関係があることで両家のつながりやポジション、立ち位置について考慮すべきであることも頭に入れたわけである。
そこで、こんなことを調べてみた。そもそも、北島氏とは、どんな一族なのか。
すると、意外なことがわかったのである。
以前紹介した「名字分布図鑑」さんで、北島姓を検索するとこうなった。
「日本名字分布図鑑」さんより北島姓
http://myozi.web.fc2.com/winter/zukan/frame/f000434.htm
これだけではわけがわからないので、比較のために
「日本名字分布図鑑」さんより大塚姓
http://myozi.web.fc2.com/spring/zukan/frame/f000086.htm
どちらも「市町村別分布地方地図a6(世帯数)」を広げてよく見てほしい。
どうだろうか?とても不思議なことに、
「大塚姓」と「北島姓」の存在市町村分布図がとてもよく似ている
ことに気付かないだろうか。もちろん、細かな違いはあるが、大まかな分布としては、共通点が見えそうな感じする。
さらに面白いことに「名字分布図鑑」さんの左の欄には、その姓の「高密度順位」が載っているのだが、北島姓においては
「1位 三潴郡大木町」「12位 (旧三潴郡・八女郡)筑後市」「17位(旧三潴郡)久留米市城島町」
という結果となっており、「北島は三潴地域の姓」だということがわかるのである。
==========
これらのデータが何を示しているのか。それは
「大塚姓と北島姓」が歴史的に何らかの関係を有している
ということに他ならない。
ちょっと、わかりにくければこういう例えはどうだろう。軍師官兵衛ちゃんでいえば
「小寺姓と黒田姓」
は関わりがある、という具合だ。当ブログではおなじみの「赤松系家臣団」でいえば、
「淡河姓・明石姓・衣笠姓」
などは、関わりがある、という訳だ。
実際、久留米藩の分限帳にはこのあたりの苗字がやたら出てくるのだが、仮に「淡河さんと明石さん」が住んでいる地区が九州にあれば、
「うーむ、恐らく彼らは播磨からやってきた赤松家臣団だな」
という推測が成り立つわけである。
残念ながら、北島氏族は、赤松系であるという資料はほとんどないので、大塚-北島ラインが繋がっているとすれば、
「大塚氏・北島氏が仕えた共通の戦国武将がいるのか」
といった目線で考えるのも面白いだろう。
===========
ちなみに太田亮大先生の「姓氏家系大辞典」によると九州の北島姓は
肥後の豪族。藤原氏族で本姓は「益子」氏のち「北島」。
嘉吉三年の菊池持朝の侍帳に「北島新左衛門」、永正元年政隆の侍帳に「北島長門守氏定」が載っている。
とのこと。
このあたりはさらなる調査を続行予定である。
2014年5月30日金曜日
2014年5月26日月曜日
<調査中>神奈川県の大塚さん
いつも全国各地の「大塚さん」や「大塚」にゆかりのある方々からメールを頂いております。
私のように、今の姓が「大塚」な方はもとより、母方の先祖に「大塚姓」がいらっしゃるなどの情報も断続的に頂いております。
それぞれの大塚さんがお持ちの情報は断片的でも、繋ぎ合わせてゆくうちに新しい発見があるかもしれません。
ぜひ、当ブログをお読みになって「面白いなあ」と思われた方は、メールを気軽にいただければ嬉しく思います。
==========
さて、神奈川県にゆかりのある「大塚さん」からもご連絡をいただいております。その方は「横須賀」近辺の大塚さんに繋がる方だそうですが、「横須賀」「横浜」近辺にも大塚姓がいくつかあるようです。
横須賀市のサイト
http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0210/shishi/shishi3-kankou.html
によると、衣笠村というところに「村名主」を務めた大塚家がある、とのこと。
横須賀 西来寺さんのサイト
http://sairaiji.com/p1.php
にも、地元の大塚氏のことが少し出てきます。
地名のことで考えれば、神奈川県の「大塚」地名といえば、真っ先に思い浮かぶのが「相模大塚」ですね。駅もあります。
ウィキペディアより 相模大塚
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E9%A7%85
相模大塚の地名は、もともと古墳があったからのようです。
というわけで、神奈川県の大塚さん、情報お寄せくださいませ!
私のように、今の姓が「大塚」な方はもとより、母方の先祖に「大塚姓」がいらっしゃるなどの情報も断続的に頂いております。
それぞれの大塚さんがお持ちの情報は断片的でも、繋ぎ合わせてゆくうちに新しい発見があるかもしれません。
ぜひ、当ブログをお読みになって「面白いなあ」と思われた方は、メールを気軽にいただければ嬉しく思います。
==========
さて、神奈川県にゆかりのある「大塚さん」からもご連絡をいただいております。その方は「横須賀」近辺の大塚さんに繋がる方だそうですが、「横須賀」「横浜」近辺にも大塚姓がいくつかあるようです。
横須賀市のサイト
http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0210/shishi/shishi3-kankou.html
によると、衣笠村というところに「村名主」を務めた大塚家がある、とのこと。
横須賀 西来寺さんのサイト
http://sairaiji.com/p1.php
にも、地元の大塚氏のことが少し出てきます。
地名のことで考えれば、神奈川県の「大塚」地名といえば、真っ先に思い浮かぶのが「相模大塚」ですね。駅もあります。
ウィキペディアより 相模大塚
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E9%A7%85
相模大塚の地名は、もともと古墳があったからのようです。
というわけで、神奈川県の大塚さん、情報お寄せくださいませ!
2014年5月25日日曜日
<新技術!>ルーツ調べの秘技?!『地縁血縁解析法』って何だ?!
・・・ちょっと面白い「先祖調べ・ルーツ探しのための技術」を考案したので、実際に試してみたら
恐ろしい、いや面白いことがわかって
しまいました。
頭ではわかっていたのですが、実際にやってみると「かなりズバッ」と結果が出るので、新しい活用法があるんじゃないかな、と思います。
名づけて
「地縁血縁解析法」(先祖家系本貫地解析法)
地域・地元の縁と一族の血縁を相互に解析するという「情報工学」に基づいた(ホンマか?!)最新技術です。
情報工学に基づいてはいますが、意外とアナログです。
いや、でも姓氏・家系調査をやってる人で、このワザを使っている人は意外に少ないんじゃないかなあ、と思う。
<「地縁血縁解析法」(先祖家系本貫地解析法)の良い所>
① その地域(広い地域)において、あなたの姓が特殊であったり、特徴的であったりした場合、あなたの一族の本拠地・本貫地をある程度割り出すことが可能かもしれません。
② たとえば、あなたの先祖がこの地区に「やってきた」という傍証を得ることができます。
③ あなたの一族の広がり、伝播を解析することができます。同族の移住状況などを知ることもできるでしょう。
④ あなたの一族の状況が、目で見て「一発」でわかります。面白いほどわかりやすいです。
<「地縁血縁解析法」のだめな所>
① その地域(広い地域)において、あなたの姓があまりにも一般的であったり、あまりにも多い場合に解析の効果が薄い場合があります。
(★その村に同じ苗字の人がたくさんいる、という状況は大丈夫です。解析可能です。むしろ、そのほうが好都合かもしれません。問題になるのは、「どこに行っても田中さんだらけ」とか「その地域の広い範囲で隅々まで鈴木さんがいる」といった状況では解析エラーになります)
② 一族の広がりが、広範囲過ぎた場合には、「伝播状況」はわかりますが「本拠地・本貫地」の解析には役に立たない場合があります。
==========
で、具体的にどうやるんだ?!と思っておられる諸氏が多いと思いますが、まだちょっと方法論の確立に時間をかけてますので公開はしばらくお待ちを(ウフ)
けして捏造ではありません。
「地縁血縁解析法」はあるんです!
私は何回も成功してるんです!
==========
★ ちなみにわが家系の場合、何がわかったかと言うと・・・。
① 筑後地域をはじめとして、三潴地域に「大塚姓」はもちろん広く流布しているんだけれど、うちに関して言えば
ある特徴的な分布図を描いている
ことがわかりました。
② そしておそらく、当地域の大塚姓の「核」となるムラが、うちのムラであり、少なくとも同族・近い一族の本拠地ならびに伝播の中心地域が「うちのムラ♪(森高千里風に)」であることがわかりました。
③ ということは、我々の先祖は、何らかの事情で「ピンポイントでそこへやってきた」と考えることができます。
(つまり、大塚姓が生まれるような「塚」はもともとそのムラには無いし、伝承もない。とすれば、何らかの事情で「大塚誰それ」さんが、ある時点で、ポンとそこへやって来た、と考えるのが妥当)
④ その他、周辺事項と組み合わせると驚くべき仮説が立てられる・・・?!
まあ、そこらへんはもう少し資料が揃えば書いていこうと思います。
恐ろしい、いや面白いことがわかって
しまいました。
頭ではわかっていたのですが、実際にやってみると「かなりズバッ」と結果が出るので、新しい活用法があるんじゃないかな、と思います。
名づけて
「地縁血縁解析法」(先祖家系本貫地解析法)
地域・地元の縁と一族の血縁を相互に解析するという「情報工学」に基づいた(ホンマか?!)最新技術です。
情報工学に基づいてはいますが、意外とアナログです。
いや、でも姓氏・家系調査をやってる人で、このワザを使っている人は意外に少ないんじゃないかなあ、と思う。
<「地縁血縁解析法」(先祖家系本貫地解析法)の良い所>
① その地域(広い地域)において、あなたの姓が特殊であったり、特徴的であったりした場合、あなたの一族の本拠地・本貫地をある程度割り出すことが可能かもしれません。
② たとえば、あなたの先祖がこの地区に「やってきた」という傍証を得ることができます。
③ あなたの一族の広がり、伝播を解析することができます。同族の移住状況などを知ることもできるでしょう。
④ あなたの一族の状況が、目で見て「一発」でわかります。面白いほどわかりやすいです。
<「地縁血縁解析法」のだめな所>
① その地域(広い地域)において、あなたの姓があまりにも一般的であったり、あまりにも多い場合に解析の効果が薄い場合があります。
(★その村に同じ苗字の人がたくさんいる、という状況は大丈夫です。解析可能です。むしろ、そのほうが好都合かもしれません。問題になるのは、「どこに行っても田中さんだらけ」とか「その地域の広い範囲で隅々まで鈴木さんがいる」といった状況では解析エラーになります)
② 一族の広がりが、広範囲過ぎた場合には、「伝播状況」はわかりますが「本拠地・本貫地」の解析には役に立たない場合があります。
==========
で、具体的にどうやるんだ?!と思っておられる諸氏が多いと思いますが、まだちょっと方法論の確立に時間をかけてますので公開はしばらくお待ちを(ウフ)
けして捏造ではありません。
「地縁血縁解析法」はあるんです!
私は何回も成功してるんです!
==========
★ ちなみにわが家系の場合、何がわかったかと言うと・・・。
① 筑後地域をはじめとして、三潴地域に「大塚姓」はもちろん広く流布しているんだけれど、うちに関して言えば
ある特徴的な分布図を描いている
ことがわかりました。
② そしておそらく、当地域の大塚姓の「核」となるムラが、うちのムラであり、少なくとも同族・近い一族の本拠地ならびに伝播の中心地域が「うちのムラ♪(森高千里風に)」であることがわかりました。
③ ということは、我々の先祖は、何らかの事情で「ピンポイントでそこへやってきた」と考えることができます。
(つまり、大塚姓が生まれるような「塚」はもともとそのムラには無いし、伝承もない。とすれば、何らかの事情で「大塚誰それ」さんが、ある時点で、ポンとそこへやって来た、と考えるのが妥当)
④ その他、周辺事項と組み合わせると驚くべき仮説が立てられる・・・?!
まあ、そこらへんはもう少し資料が揃えば書いていこうと思います。
2014年5月24日土曜日
<67>『北肥戦誌(九州治乱記)』を読む その3
またまた続きを。
近代デジタルライブラリー より 「北肥戦誌・九州治乱記」 エピソードツー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441746
<コマ82> 大塚内蔵允
龍造寺四天王の一人らしい「成松遠江守」(成松信勝)に引き続いて戦っている「大塚内蔵允」なる人物の名がちらりと。
当然、龍造寺家臣。
<コマ85・99・100・107・124・140> 登場回数一位、ぼくかつえもん!
後半戦になって、やたら登場するのがこの人物。龍造寺家臣の「大塚勝右衛門」なる男だが、たくさん出てくる割には、何者かよくわからない。
コマ85では、「龍造寺隆信勢が、ちょっと押されて崩れかかったところ、大塚勝右衛門とその仲間たち30人くらいが頑張ったので、勢いを取り戻した」とある。
やるな、勝えもん。
コマ99では、肥後和仁城を攻めるに当たって、龍造寺は「鍋島信生」を筆頭に差し向け、大塚勝右衛門もそこに同行している。
コマ100では、隅府攻めに際し、基本同じようなメンバーで戦っている。センター「鍋島信子(笑)」、チームNに「大塚勝右衛子(笑)」もいる。
コマ107では、筑後山下城(蒲池志摩守鑑広の城・八女市)攻めに対して、なんと
一番槍
を勤めたらしい。これはっ!総選挙で一位になった「さしこ」みたいなもんなのか!
ここにいっしょに登場するのが「大塚伯耆守」という人物。何者かは、やっぱりわからない。
★犬塚伯耆守の誤記の可能性あり。犬塚家重・家直か?
コマ124では、勝右衛門は、我が一族に関わりのある大事件の現場に居合わせている。もちろん、龍造寺側の人間なので、
どちらかと言えば悪役の一味
なのだが、この話はもっとゆっくり別に機会を取るべし。
事件は「蒲池鎮漣(かまちしげなみ)殺人事件」。鎮漣は、北肥戦誌では「蒲池鎮竝」と記載されている。
<コマ114>
龍造寺氏が肥後征伐へ向かう時の話。先陣はやっぱり不動のセンター「鍋島信生」なのだが、二陣に「大塚三郎右衛門家広」なる人物が挙がっている。
これはおそらく誤記で、正しくは「犬塚三郎右衛門家広」であり、肥前中津隈城主であろう。
<コマ140> 既出ですが。
大塚勝右衛門ならびに大塚内蔵允の記載あり。
==========
というわけでざっと見てきたが、「大塚と犬塚の記載まちがいが怪しい箇所」があるので、別の「北肥戦誌」と比較の上再度修正するかも。
しかし、天下の犬塚氏は資料がたくさんあるのに、我らが大塚氏は資料があんまりないとはどういうこっちゃ!
近代デジタルライブラリー より 「北肥戦誌・九州治乱記」 エピソードツー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441746
<コマ82> 大塚内蔵允
龍造寺四天王の一人らしい「成松遠江守」(成松信勝)に引き続いて戦っている「大塚内蔵允」なる人物の名がちらりと。
当然、龍造寺家臣。
<コマ85・99・100・107・124・140> 登場回数一位、ぼくかつえもん!
後半戦になって、やたら登場するのがこの人物。龍造寺家臣の「大塚勝右衛門」なる男だが、たくさん出てくる割には、何者かよくわからない。
コマ85では、「龍造寺隆信勢が、ちょっと押されて崩れかかったところ、大塚勝右衛門とその仲間たち30人くらいが頑張ったので、勢いを取り戻した」とある。
やるな、勝えもん。
コマ99では、肥後和仁城を攻めるに当たって、龍造寺は「鍋島信生」を筆頭に差し向け、大塚勝右衛門もそこに同行している。
コマ100では、隅府攻めに際し、基本同じようなメンバーで戦っている。センター「鍋島信子(笑)」、チームNに「大塚勝右衛子(笑)」もいる。
コマ107では、筑後山下城(蒲池志摩守鑑広の城・八女市)攻めに対して、なんと
一番槍
を勤めたらしい。これはっ!総選挙で一位になった「さしこ」みたいなもんなのか!
ここにいっしょに登場するのが「大塚伯耆守」という人物。何者かは、やっぱりわからない。
★犬塚伯耆守の誤記の可能性あり。犬塚家重・家直か?
コマ124では、勝右衛門は、我が一族に関わりのある大事件の現場に居合わせている。もちろん、龍造寺側の人間なので、
どちらかと言えば悪役の一味
なのだが、この話はもっとゆっくり別に機会を取るべし。
事件は「蒲池鎮漣(かまちしげなみ)殺人事件」。鎮漣は、北肥戦誌では「蒲池鎮竝」と記載されている。
<コマ114>
龍造寺氏が肥後征伐へ向かう時の話。先陣はやっぱり不動のセンター「鍋島信生」なのだが、二陣に「大塚三郎右衛門家広」なる人物が挙がっている。
これはおそらく誤記で、正しくは「犬塚三郎右衛門家広」であり、肥前中津隈城主であろう。
<コマ140> 既出ですが。
大塚勝右衛門ならびに大塚内蔵允の記載あり。
==========
というわけでざっと見てきたが、「大塚と犬塚の記載まちがいが怪しい箇所」があるので、別の「北肥戦誌」と比較の上再度修正するかも。
しかし、天下の犬塚氏は資料がたくさんあるのに、我らが大塚氏は資料があんまりないとはどういうこっちゃ!
2014年5月23日金曜日
<66>『北肥戦誌(九州治乱記)』を読む その2
さて、なかなか濃い内容の「九州治乱記こと北肥戦誌」のつづきを読んでいきたいと思う。
近代デジタルライブラリー より 「北肥戦誌・九州治乱記」 エピソードツー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441746
<コマ39> 「あの家紋、ほちぃ」
鍋島氏と大友氏が戦っている時のこと。
「鍋島が大友方の陣を窺って見ていると、陣幕の紋が茗荷の丸であり、ろうそくの光に輝きその形がはっきりと写し出されていた。そこで鍋島信生(のちの佐賀藩主)は家臣に言う。
『おまいら、あの紋を見ろ。うるわしいではないか。よし、今からあの陣に一気に攻め込み、ぶちかましたことを吉例としてワシの紋にしようぢゃないか』
というわけで部下に「俺は神代長良だ!裏切って寝返るぞ」と大声でウソをつかせて陣内を混乱させ、一斉に襲い掛かったのであった」
・・・というわけで佐賀藩鍋島のお殿様まで「抱き茗荷」(実は抱き杏葉)を使うことになりましたとさ。
パクリはするわ、成りすますわ、なかなか卑怯なり鍋島信生!
<コマ39> 犬塚姓のこと、そして小城一揆
コマ39の続きである。
実は北肥戦誌後半になると「犬塚姓」がたくさん登場するようになる。たとえばこのコマに出ている「犬塚伊豆守」など、大塚に似ているため気にかかるところであるが、実は「犬塚姓」のほうが出自がはっきりしているので押さえておく必要がある。
犬塚氏は、三潴郡犬塚出身の蒲池氏系列であり、のち蒲池から独立し小弐氏につく。
ややこしいが、その後犬塚氏は大友氏方につき、さらにのちは龍造寺についた。
(コマ39では犬塚伊豆守は龍造寺家臣となっている)
・・・敵も味方もあったもんじゃねえなあ。
(ちなみに犬塚姓と大塚姓の関わり、変化はよくわかっていない。おそらく無関係の可能性大)
さて、次に「小城一揆」として列挙されている名前を見てみよう。
「小城一揆、徳島、粟飯原、空閑、大塚、桃崎、彌頭司」
前回松浦党の事を書いたが、こちらも「小城グーン!ダーン!(軍団)」のことである。現在でも小城市が佐賀県中央部にあるが、そこらへんの武士集団ということになろう。
のちに小城城を鍋島氏が建てたりするので、小城地域はずっと鍋島支配下にあったということがわかる。
<コマ40> 大塚左京允・大塚内蔵允
小城一揆のメンバーとして「大塚左京允」の名前、それから小城勢かどうかは読み取れないが「大塚内蔵允」の名前が見える。
ちなみに追加情報。
佐賀県小城市小城町岩茂大塚
なる地名が現在もあるようで。ということは小城一揆勢の「大塚」姓の発祥はどう考えてもココでしょうね。
★これにて1氏追加?! 佐賀県小城出自の鍋島家臣、大塚氏ということで。
<コマ41> 謎の男がいる?!
このコマ後半に
2尺7寸の太刀を振り回す「小城鯖岡の犬塚左京允盛家」なる人物が登場するのだが、なーんか気になるのは、前回の記事を参照してほしい。
コマ189に「岡の大塚左京亮盛家」なる人物が出てきているのだが、名前が似てるような、似てないような・・・。
どちらも小城周辺の武将なので、
同一人物
の可能性が大である。
★こうした「大塚」「犬塚」「木塚」などの誤記があると、困ってしまうのだが、江戸時代の人に文句を言っても仕方がない。状況から類推するより他ないのである。
結論から先に言えば、この人物
犬塚鎮家 のこととごっちゃになってる?もしくはなってない?
別名犬塚盛家。
ウィキペディア参照のこと
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E5%A1%9A%E9%8E%AE%E5%AE%B6
犬塚鎮家は小城一揆衆じゃないと思うんだけど・・・。さらにいえば、鎮家は「弾正」「播磨守」ではあったが「左京允」だったかどうか・・・。
(長くなるので、この章もまた続く)
近代デジタルライブラリー より 「北肥戦誌・九州治乱記」 エピソードツー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441746
<コマ39> 「あの家紋、ほちぃ」
鍋島氏と大友氏が戦っている時のこと。
「鍋島が大友方の陣を窺って見ていると、陣幕の紋が茗荷の丸であり、ろうそくの光に輝きその形がはっきりと写し出されていた。そこで鍋島信生(のちの佐賀藩主)は家臣に言う。
『おまいら、あの紋を見ろ。うるわしいではないか。よし、今からあの陣に一気に攻め込み、ぶちかましたことを吉例としてワシの紋にしようぢゃないか』
というわけで部下に「俺は神代長良だ!裏切って寝返るぞ」と大声でウソをつかせて陣内を混乱させ、一斉に襲い掛かったのであった」
・・・というわけで佐賀藩鍋島のお殿様まで「抱き茗荷」(実は抱き杏葉)を使うことになりましたとさ。
パクリはするわ、成りすますわ、なかなか卑怯なり鍋島信生!
<コマ39> 犬塚姓のこと、そして小城一揆
コマ39の続きである。
実は北肥戦誌後半になると「犬塚姓」がたくさん登場するようになる。たとえばこのコマに出ている「犬塚伊豆守」など、大塚に似ているため気にかかるところであるが、実は「犬塚姓」のほうが出自がはっきりしているので押さえておく必要がある。
犬塚氏は、三潴郡犬塚出身の蒲池氏系列であり、のち蒲池から独立し小弐氏につく。
ややこしいが、その後犬塚氏は大友氏方につき、さらにのちは龍造寺についた。
(コマ39では犬塚伊豆守は龍造寺家臣となっている)
・・・敵も味方もあったもんじゃねえなあ。
(ちなみに犬塚姓と大塚姓の関わり、変化はよくわかっていない。おそらく無関係の可能性大)
さて、次に「小城一揆」として列挙されている名前を見てみよう。
「小城一揆、徳島、粟飯原、空閑、大塚、桃崎、彌頭司」
前回松浦党の事を書いたが、こちらも「小城グーン!ダーン!(軍団)」のことである。現在でも小城市が佐賀県中央部にあるが、そこらへんの武士集団ということになろう。
のちに小城城を鍋島氏が建てたりするので、小城地域はずっと鍋島支配下にあったということがわかる。
<コマ40> 大塚左京允・大塚内蔵允
小城一揆のメンバーとして「大塚左京允」の名前、それから小城勢かどうかは読み取れないが「大塚内蔵允」の名前が見える。
ちなみに追加情報。
佐賀県小城市小城町岩茂大塚
なる地名が現在もあるようで。ということは小城一揆勢の「大塚」姓の発祥はどう考えてもココでしょうね。
★これにて1氏追加?! 佐賀県小城出自の鍋島家臣、大塚氏ということで。
<コマ41> 謎の男がいる?!
このコマ後半に
2尺7寸の太刀を振り回す「小城鯖岡の犬塚左京允盛家」なる人物が登場するのだが、なーんか気になるのは、前回の記事を参照してほしい。
コマ189に「岡の大塚左京亮盛家」なる人物が出てきているのだが、名前が似てるような、似てないような・・・。
どちらも小城周辺の武将なので、
同一人物
の可能性が大である。
★こうした「大塚」「犬塚」「木塚」などの誤記があると、困ってしまうのだが、江戸時代の人に文句を言っても仕方がない。状況から類推するより他ないのである。
結論から先に言えば、この人物
犬塚鎮家 のこととごっちゃになってる?もしくはなってない?
別名犬塚盛家。
ウィキペディア参照のこと
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E5%A1%9A%E9%8E%AE%E5%AE%B6
犬塚鎮家は小城一揆衆じゃないと思うんだけど・・・。さらにいえば、鎮家は「弾正」「播磨守」ではあったが「左京允」だったかどうか・・・。
(長くなるので、この章もまた続く)
2014年5月20日火曜日
<65>『北肥戦誌(九州治乱記)』を読む その1
このブログは、九州大塚氏、特に「抱き茗荷大塚氏」の先祖を「赤松氏」である、という仮定に基づいて執筆しているのであるが、実際のところほんまにそうなのかどうかは、じぇんじぇんわかっていない。
ブログを書いている本人は、けっこう真面目に調査をしているのであるが、そこはホレ。できることなら面白おかしく読んでいただきたい、ということで世にも希な
エンターテイメント系ご先祖探しブログ
を目指してまい進しているところである。
というわけで、本来であれば真っ先にやっておくべきはずの「九州大塚氏の調査」を完全に後回しにしてきているわけで、
いよいよ本腰を入れて(←オイ)
九州地方の資料を読むわけである。
==========
「北肥戦誌」別名「九州治乱記」は、戦国期の九州を学ぶものについては必読の書である。
書いた人は佐賀藩士、馬渡俊継。書かれた年代は正徳年間だそうである。
うーん、うちの先祖が子供のお墓を作っている頃に、佐賀藩士がこんな本をカキコしていたなんて!
この「北肥戦誌」、刊本としてはいろんなバージョンがあるようだが、今回はもちろん近代デジタルライブラリ版を無料で読んでみたい!
ちょっと長いこともあって、分割してお届けするのだが、頑張ってついてきてほしい。
近代デジタルライブラリー より 「北肥戦誌・九州治乱記」エピソード ワン
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441745
☆読み落しがあるかもしれないけれど、ごめんね。
==========
<コマ28> 大塚三郎のひざ
建武5年(1338)3月、菊池武重が筑後に攻めてきた時VSしたのが松浦党の軍団で、その家臣にいたのが「大塚三郎」だそうである。
松浦党は肥前松浦地方で結成された「軍団(武士団)」で、源氏松浦氏を中心にその仲間たちで結成されているため血縁というより地縁で結びついた同盟軍である。
この大塚三郎、右ヒザを射抜かれて重傷だったようだが、面白いことに、近代デジタルライブラリー版とその他の版でニュアンスが異なっている。
近デジ(←略すな)版は、「一、赤木又次郎入道源栄 一、大塚三郎右ひざ口射疵」となっているが、
松浦史 さんのサイト
http://www.geocities.jp/tamatorijisi/matuurasi.html
で引用されている「九州治乱記」の版では
「一、赤木亦次郎入道源栄代大塚三郎 右ヒザ口射疵」
となっている。
松浦史さんの方では、赤木亦次郎代わって大塚三郎と読めるため、この記載だと「松浦党大塚氏は、赤木氏ルーツ」ということになる。
<コマ55> 小弐氏子孫の大塚氏
嘉禄元年(1225)に武藤資頼が宇佐八幡宮の太宰小弐に任官されはじまる武藤小弐氏は
「九州には肩を並べる者がなく、子孫は次第に繁栄し、朝日・窪・出雲・平井・馬場・山井・志賀・大塚・加茂・吉田と名字が分かれる」
と記載されている。さらに
「一門はそれぞれ肥筑地方に蔓延って大勢の者となった」
と続く。
この大塚氏が、当家と関わりがあるかどうかはわからないが、実は同じ村の大塚氏と吉田氏がどとらも抱き茗荷紋を使っているので、気になるかもしれない。ならないかもしれない。
<コマ67> 大友氏と茗荷丸
ホラ来た。この話は混乱するから困ってるんだよねえ。
九州の名族「大友氏」は、言わずもがな有名なのだがこんな記載が。
「大友氏は3つに分かれていて、一つは、御紋衆。吉弘・一萬田・田原・清田・田北・立花・志賀・戸次、以上。大友の一門は藤原氏で、みな紋所は茗荷丸を用いる」
これがやっかいなのである。大友氏も立花氏(柳川藩主)も、「みょうがまる」を用いてくれるのはいいんだが、実は「抱き杏葉」なんだから始末が悪い。
この話は既出で書いたが、もちろん私も「大塚氏じつは抱き杏葉」説も頭の片隅には置いている。
★この本を書いた馬渡俊継が、正徳年間には「佐賀のお殿様は抱き茗荷やもんね」と思ってる可能性もあるし、違う可能性もある。
<コマ170>大塚七左衛門 討ち死に
龍造寺家臣の「大塚七左衛門」が登場。佐賀勢、との記載。
「討ち死にした者、(略)大塚七左衛門」
龍造寺氏は、佐賀の国人で、はじめ千葉氏に仕えていたが、のちに小弐氏に仕えた。
ところが小弐氏を下克上したり、のちに大友氏をぶっ飛ばしたりして、本来の家紋は「十二日足」だったのを「抱き杏葉」に変えたりしている。
龍造寺氏はあの「赤いスイトピー」でおなじみ蒲池法子(松田聖子)な蒲池氏と仲がよく、筑後にもけっこう出入りしていたので、(蒲池氏は三潴地域が拠点)このあたりも怪しさプンプンである。
もし我が家の「抱き茗荷」が「抱き杏葉あらため、抱き茗荷」だとすれば、赤松系の話は、一旦おじゃんにして、「小弐・龍造寺・蒲池系」を検討してもよいところである。
<コマ189> 地元の大塚氏
佐賀、小城の近辺の郷司として次の名前があった。
「今河の持永(略)盛秀」から始まり、
「岡の大塚左京亮盛家」
「西郷の空閑(略)・江頭(略)」など小城付近の武将が集まっている。
★持永盛秀は今川氏(九州探題)の子孫。佐賀小城の持永城城主。
★誤記の可能性あり。「その2」参照のこと。
<コマ190> 追加でいっとけ
大塚氏追加。打ち死にした者として
「大塚次郎兵衛(略)は安徳上野介直治の出勢の内(の者)である」とのこと。
安徳上野介の拠点は長崎島原の「安徳城」だそうだが、安徳氏は、はじめ有馬氏につき、のち龍造寺、その後再度有馬に付くなどしている。
<コマ203>大塚隠岐守が怪しい。
「神代の家臣(略)大塚隠岐守」
という記述があるのだが、このあたりざっくり説明すると、神代長良という肥前の戦国武将が、龍造寺隆信に攻められて死にそうになったときに、家臣に助けられて落ち延びる、というくだりである。
神代氏は、久留米の高良玉垂神社の神官を務めた家柄で、もとは物部氏から分かれている。
それが故あって小弐氏の家臣となり、龍造寺が小弐氏を下克上したときに龍造寺と戦うはめになっている。
その後、大友家臣を経て、最終的には龍造寺に従うことになるのだが、はてさて大塚隠岐の子孫はどうなったのやら。
で、何が怪しいのかと言えば!
当家の氏神は「高良玉垂神社」であり、高良社の神仏習合寺は「天台宗」なので、そこから「茗荷紋」が来ているとすると、神代氏系大塚氏はあながちハズレでないかもしれないのである。
うーん。難しい・・・。
長いので、今日はここまで。
★記事一部修正しました。
ブログを書いている本人は、けっこう真面目に調査をしているのであるが、そこはホレ。できることなら面白おかしく読んでいただきたい、ということで世にも希な
エンターテイメント系ご先祖探しブログ
を目指してまい進しているところである。
というわけで、本来であれば真っ先にやっておくべきはずの「九州大塚氏の調査」を完全に後回しにしてきているわけで、
いよいよ本腰を入れて(←オイ)
九州地方の資料を読むわけである。
==========
「北肥戦誌」別名「九州治乱記」は、戦国期の九州を学ぶものについては必読の書である。
書いた人は佐賀藩士、馬渡俊継。書かれた年代は正徳年間だそうである。
うーん、うちの先祖が子供のお墓を作っている頃に、佐賀藩士がこんな本をカキコしていたなんて!
この「北肥戦誌」、刊本としてはいろんなバージョンがあるようだが、今回はもちろん近代デジタルライブラリ版を無料で読んでみたい!
ちょっと長いこともあって、分割してお届けするのだが、頑張ってついてきてほしい。
近代デジタルライブラリー より 「北肥戦誌・九州治乱記」エピソード ワン
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441745
☆読み落しがあるかもしれないけれど、ごめんね。
==========
<コマ28> 大塚三郎のひざ
建武5年(1338)3月、菊池武重が筑後に攻めてきた時VSしたのが松浦党の軍団で、その家臣にいたのが「大塚三郎」だそうである。
松浦党は肥前松浦地方で結成された「軍団(武士団)」で、源氏松浦氏を中心にその仲間たちで結成されているため血縁というより地縁で結びついた同盟軍である。
この大塚三郎、右ヒザを射抜かれて重傷だったようだが、面白いことに、近代デジタルライブラリー版とその他の版でニュアンスが異なっている。
近デジ(←略すな)版は、「一、赤木又次郎入道源栄 一、大塚三郎右ひざ口射疵」となっているが、
松浦史 さんのサイト
http://www.geocities.jp/tamatorijisi/matuurasi.html
で引用されている「九州治乱記」の版では
「一、赤木亦次郎入道源栄代大塚三郎 右ヒザ口射疵」
となっている。
松浦史さんの方では、赤木亦次郎代わって大塚三郎と読めるため、この記載だと「松浦党大塚氏は、赤木氏ルーツ」ということになる。
<コマ55> 小弐氏子孫の大塚氏
嘉禄元年(1225)に武藤資頼が宇佐八幡宮の太宰小弐に任官されはじまる武藤小弐氏は
「九州には肩を並べる者がなく、子孫は次第に繁栄し、朝日・窪・出雲・平井・馬場・山井・志賀・大塚・加茂・吉田と名字が分かれる」
と記載されている。さらに
「一門はそれぞれ肥筑地方に蔓延って大勢の者となった」
と続く。
この大塚氏が、当家と関わりがあるかどうかはわからないが、実は同じ村の大塚氏と吉田氏がどとらも抱き茗荷紋を使っているので、気になるかもしれない。ならないかもしれない。
<コマ67> 大友氏と茗荷丸
ホラ来た。この話は混乱するから困ってるんだよねえ。
九州の名族「大友氏」は、言わずもがな有名なのだがこんな記載が。
「大友氏は3つに分かれていて、一つは、御紋衆。吉弘・一萬田・田原・清田・田北・立花・志賀・戸次、以上。大友の一門は藤原氏で、みな紋所は茗荷丸を用いる」
これがやっかいなのである。大友氏も立花氏(柳川藩主)も、「みょうがまる」を用いてくれるのはいいんだが、実は「抱き杏葉」なんだから始末が悪い。
この話は既出で書いたが、もちろん私も「大塚氏じつは抱き杏葉」説も頭の片隅には置いている。
★この本を書いた馬渡俊継が、正徳年間には「佐賀のお殿様は抱き茗荷やもんね」と思ってる可能性もあるし、違う可能性もある。
<コマ170>大塚七左衛門 討ち死に
龍造寺家臣の「大塚七左衛門」が登場。佐賀勢、との記載。
「討ち死にした者、(略)大塚七左衛門」
龍造寺氏は、佐賀の国人で、はじめ千葉氏に仕えていたが、のちに小弐氏に仕えた。
ところが小弐氏を下克上したり、のちに大友氏をぶっ飛ばしたりして、本来の家紋は「十二日足」だったのを「抱き杏葉」に変えたりしている。
龍造寺氏はあの「赤いスイトピー」でおなじみ蒲池法子(松田聖子)な蒲池氏と仲がよく、筑後にもけっこう出入りしていたので、(蒲池氏は三潴地域が拠点)このあたりも怪しさプンプンである。
もし我が家の「抱き茗荷」が「抱き杏葉あらため、抱き茗荷」だとすれば、赤松系の話は、一旦おじゃんにして、「小弐・龍造寺・蒲池系」を検討してもよいところである。
<コマ189> 地元の大塚氏
佐賀、小城の近辺の郷司として次の名前があった。
「今河の持永(略)盛秀」から始まり、
「岡の大塚左京亮盛家」
「西郷の空閑(略)・江頭(略)」など小城付近の武将が集まっている。
★持永盛秀は今川氏(九州探題)の子孫。佐賀小城の持永城城主。
★誤記の可能性あり。「その2」参照のこと。
<コマ190> 追加でいっとけ
大塚氏追加。打ち死にした者として
「大塚次郎兵衛(略)は安徳上野介直治の出勢の内(の者)である」とのこと。
安徳上野介の拠点は長崎島原の「安徳城」だそうだが、安徳氏は、はじめ有馬氏につき、のち龍造寺、その後再度有馬に付くなどしている。
<コマ203>大塚隠岐守が怪しい。
「神代の家臣(略)大塚隠岐守」
という記述があるのだが、このあたりざっくり説明すると、神代長良という肥前の戦国武将が、龍造寺隆信に攻められて死にそうになったときに、家臣に助けられて落ち延びる、というくだりである。
神代氏は、久留米の高良玉垂神社の神官を務めた家柄で、もとは物部氏から分かれている。
それが故あって小弐氏の家臣となり、龍造寺が小弐氏を下克上したときに龍造寺と戦うはめになっている。
その後、大友家臣を経て、最終的には龍造寺に従うことになるのだが、はてさて大塚隠岐の子孫はどうなったのやら。
で、何が怪しいのかと言えば!
当家の氏神は「高良玉垂神社」であり、高良社の神仏習合寺は「天台宗」なので、そこから「茗荷紋」が来ているとすると、神代氏系大塚氏はあながちハズレでないかもしれないのである。
うーん。難しい・・・。
長いので、今日はここまで。
★記事一部修正しました。
2014年5月17日土曜日
<ニュース>”過去帳は部外者に見せないで”
当ブログにも関わりのあるニュースが配信されていたので、ご紹介しておきます。
「過去帳は部外者に見せないで」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140516-00000023-asahi-soci
yahoo!ニュースの5月16日配信版 朝日新聞からの記事です。
ご先祖さま探しにおいて、「戸籍」「寺の過去帳」から辿る、ということが重要ではあるのですが、日本の歴史の悲しい部分である「身分差別」が明らかになることでもあるので、そうした記載のある資料はどんどん閲覧が厳しくなっていっています。
==========
戸籍についてはすでに「壬申戸籍」(明治5年版)が完全に閲覧禁止になっており、私たちは基本的には明治5年以前の戸籍をたどることは不可能になっています。
理由は、幕末時点での身分である「士族」「平民」「新平民」などの差別に関わる身分の記載があるからで、昭和43年以降は誰も見ることができません。(法務局に厳重保管されているそうです)
それほど、差別の問題は大事なこと、なのです。
ちなみに私たちが取得できるのは「明治19年式戸籍」の写しからで、明治19年当時に存在していた人の「前戸主(つまりお父さん)」までの記載はあるので、江戸期までなんとか辿れる、というしくみになっています。
==========
寺の過去帳についても、いっそう閲覧が厳しくなることと思います。
過去帳には被差別民の方たちがつけられた、悪意のある「差別戒名」なるものが記載してあることがあり、差別を助長する手段として使われることがあるからです。
既に各宗派において「過去帳」の人権的取り扱いの既定が定められていますが、実際それぞれの現地の住職さんレベルで、徹底できていない事例もあり、問題になっています。
==========
当ブログにおいても、プライバシー尊重の意味から、基本的には「江戸期」以前の人名についてを中心に取り上げ、明治大正期以降のものについては、そのご子孫の心情などに配慮して極力伏せています。
明治期以降のもので個人名を挙げているものは、出版された刊本がインターネットで公開されているものや、図書館等で公開されているものに限っています。
もし、それぞれの大塚さんのご子孫で、ご先祖の名前が当ブログに掲載されており支障がある場合は、ご連絡ください。
誠実に対応させていただきます。
登録:
投稿 (Atom)