2014年3月31日月曜日
<番外編>全国の大塚姓分布を読む
みなさんこんにちは。
例のごとく我が三潴地方の「大塚姓」ルーツ探しは停滞しておりますが、今回は全国の大塚姓を俯瞰的に見てみようと思います。
日本名字分布図鑑 さんというすばらしいサイトを運営なさっておられる方がいらっしゃいますので、そちらを参考にしながら読み解いてゆきましょう。
日本名字分布図鑑 さんのサイト(入り口)
http://www7b.biglobe.ne.jp/~tami/
このサイトで「大塚姓」を検索すると
大塚姓検索結果
http://myozi.web.fc2.com/spring/zukan/frame/f000086.htm
① 大塚姓高密度21市町村(左欄外)
② 大塚姓県別分布地図
③ 大塚姓市町村別分布全国地図
④ 大塚姓市町村別分布地方地図
の四つの分布図が得られます。
全国の「大塚姓」はそれぞれが無関係に発生しており、当ブログで集めている件数で言えば40氏以上の別々の大塚姓があるわけですが、地域的な分布と連動させながら考えると理解が進むと思います。
<全国的視野で見る、大塚姓>
②の図から概観できますが、まず大塚姓が多いのは、
「東京を中心とした関東一円」
「北海道」
「大阪と兵庫県」
「福岡県を中心とした九州北部」
のおおむね4つのブロックが浮かび上がります。
北海道については、移住者が多いので一旦横に置きますが、これまでも茨城系大塚氏を取り上げたりしているので、関東の傾向はなんとなく見えそうですね。
兵庫県については、赤松系大塚氏がポイントになりそうです。大阪府については、まだブログに書いていませんが別の大塚氏がいます。
そして、福岡。これが我が家系に関係ありそうな部分ですが、やはり福岡・大分・熊本に大塚氏がたくさんいます。
<市町村別分布で見る、大塚姓>
③の図を見ると、大塚さんの実際の居住地が見えてきます。
関東はびっしりおられますね。それから岐阜・大阪・兵庫姫路一帯・岡山の南沿岸・そして福岡全面・熊本・大分です。
<市町村別(地方詳細)分布で見る、大塚姓>
④の図は詳細過ぎるので、全ては網羅できませんが、たとえば北海道の図を見ると
旭川市・帯広市・函館市などに集中していることも見えてきます。
我が九州北部の大塚氏については、福岡県内に「まんべんなく」大塚さんがおられることがわかります。多少久留米は多いかな?という程度ですね。
各地の大塚さんも、ぜひご参考になさってください。
2014年3月29日土曜日
<調査中>石川県周辺の大塚さん
最近になって当ブログを読んで下さる方が劇的に増えています。たぶん、全国の大塚さんがこっそりと読んでおられることと思いますが、何かご自分のルーツに関してご存知のことがおありでしたら遠慮なくメールくださいね。
みなさまからの情報が縦に横に絡んでいろんな発見が生まれることと思います。
今後ともごひいきに!
さて、今回は石川県周辺の大塚さんにスポットを当ててみましょう。この項だけ「石川県周辺」と多少範囲が広くなっているのには意味があります。
というのは、江戸時代に石川県を含めたこの地域を治めた「加賀藩」の領地がやたら広いからで、藩主前田家は加賀百万石なんて呼ばれた最強の外様大名だったのです。
藩としては全国最大で、徳川御三家と同格扱いだった前田家は、「松平姓」と「葵の紋」まで貰っていたとのこと。
ウィキペディアより 加賀藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E8%97%A9
さて、この加賀藩の領域は、現代では「石川県」「富山県」にまたがります。その他、明治維新後に北海道の北見礼文、枝幸、宗谷まで支配していたといいます。
==========
この加賀藩における「大塚氏」の動向ですが、既にこれまでに関係がありそうなネタをご紹介しております。
【全大塚氏族超まとめスペシャル】 加賀藩給帳の大塚氏 <I><L>の2氏
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html
【家紋『鶴の丸』の大塚さん】
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_9.html
【姫路打越の大塚氏と本願寺の関係】
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html
というわけで、今回はそれ以外の情報をご紹介しておきましょう。
①加賀藩の侍帳を読む
石川県立図書館さんに加賀藩侍帳の影印がアップされていますので、加賀藩関係の大塚さんはぜひご覧ください。
石川県立図書館さんの貴重資料ギャラリーより
http://www.library.pref.ishikawa.jp/toshokan/dglib/samurai/index.html
「慶長10年富山侍帳」
■ 慶長10年に前田利家が富山へつれてきた「大塚壱岐」
「慶長17~19年」
■ 大塚庄大夫
「元和1~2年」
■ 大塚壱岐 大塚庄大夫 大塚帯刀
「寛永4年」
■ 大塚帯刀 大塚少大夫
★見落としがあるかもしれません。
★関係ないですが、「小塚」姓もけっこうあって気になるところです。
「寛文侍帳」
■ 大塚庄大夫 大塚長兵衛 大塚源兵衛
「寛文9年侍帳」
■ 大塚庄太夫 大塚次郎八郎
★太平サブローシローみたいな「次郎八郎」さんが気になります。次男なのか八男なのか!?
②「石川県史」収録の侍帳を読む
TRC-ADEACという自治体史・歴史資料検索システムが順次稼動しており、まだ資料は少ないですが、石川県史に収録の大塚氏が検索できます。
石川県史 侍帳 検索結果より
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ1400/WJJS18U/1700105100/1700105100100020/?Word=%E5%A4%A7%E5%A1%9A&Relation=AND&BfrDispId=WJJS15U&SlctView=20
ここに掲載されている大塚氏は2氏です。
禄高200石の「大塚巳之助」「大塚右膳」、もちろん加賀藩士です。
==========
富山・石川周辺の大塚さんについては、また情報が入り次第追跡しますね!
というわけで、全国の大塚さん、家紋教えてください!!
みなさまからの情報が縦に横に絡んでいろんな発見が生まれることと思います。
今後ともごひいきに!
さて、今回は石川県周辺の大塚さんにスポットを当ててみましょう。この項だけ「石川県周辺」と多少範囲が広くなっているのには意味があります。
というのは、江戸時代に石川県を含めたこの地域を治めた「加賀藩」の領地がやたら広いからで、藩主前田家は加賀百万石なんて呼ばれた最強の外様大名だったのです。
藩としては全国最大で、徳川御三家と同格扱いだった前田家は、「松平姓」と「葵の紋」まで貰っていたとのこと。
ウィキペディアより 加賀藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E8%97%A9
さて、この加賀藩の領域は、現代では「石川県」「富山県」にまたがります。その他、明治維新後に北海道の北見礼文、枝幸、宗谷まで支配していたといいます。
==========
この加賀藩における「大塚氏」の動向ですが、既にこれまでに関係がありそうなネタをご紹介しております。
【全大塚氏族超まとめスペシャル】 加賀藩給帳の大塚氏 <I><L>の2氏
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html
【家紋『鶴の丸』の大塚さん】
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_9.html
【姫路打越の大塚氏と本願寺の関係】
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html
というわけで、今回はそれ以外の情報をご紹介しておきましょう。
①加賀藩の侍帳を読む
石川県立図書館さんに加賀藩侍帳の影印がアップされていますので、加賀藩関係の大塚さんはぜひご覧ください。
石川県立図書館さんの貴重資料ギャラリーより
http://www.library.pref.ishikawa.jp/toshokan/dglib/samurai/index.html
「慶長10年富山侍帳」
■ 慶長10年に前田利家が富山へつれてきた「大塚壱岐」
「慶長17~19年」
■ 大塚庄大夫
「元和1~2年」
■ 大塚壱岐 大塚庄大夫 大塚帯刀
「寛永4年」
■ 大塚帯刀 大塚少大夫
★見落としがあるかもしれません。
★関係ないですが、「小塚」姓もけっこうあって気になるところです。
「寛文侍帳」
■ 大塚庄大夫 大塚長兵衛 大塚源兵衛
「寛文9年侍帳」
■ 大塚庄太夫 大塚次郎八郎
★太平サブローシローみたいな「次郎八郎」さんが気になります。次男なのか八男なのか!?
②「石川県史」収録の侍帳を読む
TRC-ADEACという自治体史・歴史資料検索システムが順次稼動しており、まだ資料は少ないですが、石川県史に収録の大塚氏が検索できます。
石川県史 侍帳 検索結果より
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ1400/WJJS18U/1700105100/1700105100100020/?Word=%E5%A4%A7%E5%A1%9A&Relation=AND&BfrDispId=WJJS15U&SlctView=20
ここに掲載されている大塚氏は2氏です。
禄高200石の「大塚巳之助」「大塚右膳」、もちろん加賀藩士です。
==========
富山・石川周辺の大塚さんについては、また情報が入り次第追跡しますね!
というわけで、全国の大塚さん、家紋教えてください!!
2014年3月24日月曜日
<調査中>考察「巴紋」の大塚氏
全国の大塚さんと情報交換を続けている当ブログですが、これまでにいろいろな家紋をお持ちの「大塚さん」からご連絡を頂いているところです。
さて、先日より「左三つ巴」の大塚さんから複数情報を頂いているので、今回は「巴紋」の大塚氏にスポットを当てて考察・推測してみようと思います。
前回の記事でも紹介したとおり、茨城県の大塚さん、福井県の大塚さんに「左三つ巴」の大塚さんがおられるところから、いろいろ考えを巡らせてみましょう。
茨城の大塚さんからの情報では、「現茨城在住。郡上八幡藩井上氏との関係。織田信長の家臣だったという伝承」の3点を伺っています。
情報を頂いた当初は、織田家臣としての大塚氏に着目していたのですが、調査が進むに連れて少し面白いことがわかってきました。
① 郡上八幡藩に着目してみる。
郡上八幡藩は、遠藤氏5代につづいて、井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と続く異動の多い藩です。
歴代城主については、
郡上八幡城さんのサイト
http://www.gujohachiman.com/siro/lord/
に詳細が載っています。
さて、井上氏は元禄5年から5年間郡上八幡を治めますが、井上正任が「茨城県笠間城主から」やってきて、そして「丹波亀山城主」となり出てゆくわけです。
この間、正任の息子正岑が幕府の老中へと出世したらしいので、まあ城主はほとんど江戸にいただろうと推測されます。
ここで、ちょっと不可思議なのは、茨城の大塚さんが、茨城出身で丹波亀山(現在の亀岡)に移ったので現在亀岡在住なら話はわかりやすいのですが、
「この時、大塚氏は郡上八幡から茨城へ移った」
と把握なさっているため、順序が逆のようにも思えます。
となると「井上氏がもともと茨城から連れてきた家臣が、丹波まで行かないで茨城に戻った」と考えれば、筋は通ります。
では、現茨城在住の大塚氏一族は、郡上八幡経由ではあるものの、やっぱりもともと茨城の氏族ということになるのでしょうか?
(しかし、それでは織田家臣との整合性がとれません)
★2014・4・28追記、井上正任の3男、井上正長が茨城下妻藩を立藩するという事実がわかりました。郡上八幡から下妻へ大塚氏が移動した可能性があります。
② 茨城という地域性が示すもの。
ではまず、この大塚氏が「もとから茨城出身」だと仮定してみましょう。茨城の大塚さんは、以前にこのブログで紹介した通り
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/03/blog-post_12.html
秀郷流 - 小野崎氏 - 大塚氏の「大塚氏族」が有名です。
そして、面白いことにこの小野崎氏の家紋が「巴紋」なのです。
播磨屋さんのサイトより
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/onozaki.html
毎度おなじみ播磨屋さんの記事によると、さらに面白いことが書いてあります。
「小野崎一族の家紋は左二つ巴と決まっている」とおそらく小野崎系大塚氏の子孫の「大塚さん」という方の指摘があるのです。
(この大塚さんの家紋がぜひ知りたいところですが)もしかしたら、こうした関係で、小野崎系大塚氏の家紋が「左三つ巴」になったかもしれません。(2から3に変えた?)
とすれば、茨城系大塚さんの「巴紋」の系譜はなんとなく見えてきそうですね。
しかし、そうなると、織田信長との絡みが消えてしまいます。
③ 織田信長について再考する。
そこで、再度信長について考えてみましょう。
郡上八幡というのは、現在の岐阜県です。戦国時代は織田氏がこの地域を完全に支配していましたので、たしかに信長と郡上八幡とは関係があります。
そもそも郡上八幡の藩祖遠藤氏は、美濃の斎藤道三の後、織田氏に臣従します。
ウィキペディアより 遠藤慶隆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E6%85%B6%E9%9A%86
そうすると、「織田家臣の大塚氏が郡上八幡へ異動してきた井上氏に従い、その関係で茨城へ移った」という説も成り立つように思います。
しかし、その場合も少しだけ論理の飛躍があります。というのも、井上氏の家臣となったのなら、京都亀岡へ移るほうが自然な感じがするからです。
★2014・4・28追記、井上正任の3男、井上正長が茨城下妻藩を立藩しますので、合致します。
==========
いずれにしてもこの辺りはもう少し情報量が足りません。どこかに伝承の混同もしくは欠落があって、わかりにくくなっているのかもしれませんね。
皆様からの新たな情報お待ちしております!
さて、先日より「左三つ巴」の大塚さんから複数情報を頂いているので、今回は「巴紋」の大塚氏にスポットを当てて考察・推測してみようと思います。
前回の記事でも紹介したとおり、茨城県の大塚さん、福井県の大塚さんに「左三つ巴」の大塚さんがおられるところから、いろいろ考えを巡らせてみましょう。
茨城の大塚さんからの情報では、「現茨城在住。郡上八幡藩井上氏との関係。織田信長の家臣だったという伝承」の3点を伺っています。
情報を頂いた当初は、織田家臣としての大塚氏に着目していたのですが、調査が進むに連れて少し面白いことがわかってきました。
① 郡上八幡藩に着目してみる。
郡上八幡藩は、遠藤氏5代につづいて、井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と続く異動の多い藩です。
歴代城主については、
郡上八幡城さんのサイト
http://www.gujohachiman.com/siro/lord/
に詳細が載っています。
さて、井上氏は元禄5年から5年間郡上八幡を治めますが、井上正任が「茨城県笠間城主から」やってきて、そして「丹波亀山城主」となり出てゆくわけです。
この間、正任の息子正岑が幕府の老中へと出世したらしいので、まあ城主はほとんど江戸にいただろうと推測されます。
ここで、ちょっと不可思議なのは、茨城の大塚さんが、茨城出身で丹波亀山(現在の亀岡)に移ったので現在亀岡在住なら話はわかりやすいのですが、
「この時、大塚氏は郡上八幡から茨城へ移った」
と把握なさっているため、順序が逆のようにも思えます。
となると「井上氏がもともと茨城から連れてきた家臣が、丹波まで行かないで茨城に戻った」と考えれば、筋は通ります。
では、現茨城在住の大塚氏一族は、郡上八幡経由ではあるものの、やっぱりもともと茨城の氏族ということになるのでしょうか?
(しかし、それでは織田家臣との整合性がとれません)
★2014・4・28追記、井上正任の3男、井上正長が茨城下妻藩を立藩するという事実がわかりました。郡上八幡から下妻へ大塚氏が移動した可能性があります。
② 茨城という地域性が示すもの。
ではまず、この大塚氏が「もとから茨城出身」だと仮定してみましょう。茨城の大塚さんは、以前にこのブログで紹介した通り
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/03/blog-post_12.html
秀郷流 - 小野崎氏 - 大塚氏の「大塚氏族」が有名です。
そして、面白いことにこの小野崎氏の家紋が「巴紋」なのです。
播磨屋さんのサイトより
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/onozaki.html
毎度おなじみ播磨屋さんの記事によると、さらに面白いことが書いてあります。
「小野崎一族の家紋は左二つ巴と決まっている」とおそらく小野崎系大塚氏の子孫の「大塚さん」という方の指摘があるのです。
(この大塚さんの家紋がぜひ知りたいところですが)もしかしたら、こうした関係で、小野崎系大塚氏の家紋が「左三つ巴」になったかもしれません。(2から3に変えた?)
とすれば、茨城系大塚さんの「巴紋」の系譜はなんとなく見えてきそうですね。
しかし、そうなると、織田信長との絡みが消えてしまいます。
③ 織田信長について再考する。
そこで、再度信長について考えてみましょう。
郡上八幡というのは、現在の岐阜県です。戦国時代は織田氏がこの地域を完全に支配していましたので、たしかに信長と郡上八幡とは関係があります。
そもそも郡上八幡の藩祖遠藤氏は、美濃の斎藤道三の後、織田氏に臣従します。
ウィキペディアより 遠藤慶隆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E6%85%B6%E9%9A%86
そうすると、「織田家臣の大塚氏が郡上八幡へ異動してきた井上氏に従い、その関係で茨城へ移った」という説も成り立つように思います。
★2014・4・28追記、井上正任の3男、井上正長が茨城下妻藩を立藩しますので、合致します。
==========
いずれにしてもこの辺りはもう少し情報量が足りません。どこかに伝承の混同もしくは欠落があって、わかりにくくなっているのかもしれませんね。
皆様からの新たな情報お待ちしております!
<調査中>福井県の大塚さん
福井県にゆかりのある大塚さんからご連絡を頂きまして、その大塚氏の家紋が「三つ巴」だそうです。
また、その大塚さんがもしかしたら「新義真言宗系」のお寺と関係があるかも、というお話も頂いています。
福井県については、私も未調査であまり情報がないのですが、たしかに福井県越前市周辺に多くの大塚さんがおられるようです。
家紋「三つ巴」の大塚氏については、以前に茨城県在住の方からのご報告を頂いております。
その方の情報では、郡上八幡藩の井上家の転封により茨城へ移ったというお話も。
郡上八幡は現岐阜県ですので、岐阜美濃の左三つ巴大塚氏と、越前の左三つ巴大塚氏に果たして関係があるのかないのか、気になるところですね!
また、その大塚さんがもしかしたら「新義真言宗系」のお寺と関係があるかも、というお話も頂いています。
福井県については、私も未調査であまり情報がないのですが、たしかに福井県越前市周辺に多くの大塚さんがおられるようです。
家紋「三つ巴」の大塚氏については、以前に茨城県在住の方からのご報告を頂いております。
その方の情報では、郡上八幡藩の井上家の転封により茨城へ移ったというお話も。
郡上八幡は現岐阜県ですので、岐阜美濃の左三つ巴大塚氏と、越前の左三つ巴大塚氏に果たして関係があるのかないのか、気になるところですね!
2014年3月17日月曜日
<調査中-徳島2><46> 現場にいる不審な人影 徳島編つづき
いつもこのブログを書くときは、自分の家系に関する内容と、それ以外の大塚氏についてなるべく分けて書くように心がけているのだが、今回は<調査中-徳島編>とわが家系の大塚氏編<46>の併用区間でお届けしたい。
なぜ、徳島の大塚さんの話が三潴の大塚さんと絡むのか、それは今回の記事を読み進めていけば、じわじわとわかってくる。
まず、前回のおさらいとして、徳島の大塚さんは主に淡路島を拠点とした「稲田氏」の家臣に存在し、稲田氏が徳島藩の領主「蜂須賀氏」の家老でもあった関係で、四国側にも大塚さんが存在することを思い出して欲しい。
では、それらの大塚氏が、どのような経緯で稲田・蜂須賀家の家臣となったのかという疑問については、「稲田家御家中筋目書」等に記載があるかないか現時点では確認できていない。
しかし、仮説段階として、どうもキナくさい感じがする。
そう、またまた不審な人影がちらついているのである。
まず、大塚氏を抱えていたことが確実な稲田氏の動向を探ってみよう。
(再掲)ウィキペディアより 稲田植元
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%94%B0%E6%A4%8D%E5%85%83
これまたおさらいがてらであるが
①稲田家は、村上源氏の系統で、播州赤松で浪人をしていた。
②のち尾張の織田家に仕え、このころ蜂須賀氏と密接になる。
③秀吉に仕えて、三木合戦等にも参加。
④はじめ播磨龍野をもらう話もあったが、いろいろあって阿波を蜂須賀・稲田で領有。
⑤多彩な家臣構成であり、元武田氏や加藤氏の家臣もいた。
などがわかっているという。
なんだか、とってもプンプンにおう感じ、わかってもらえるだろうか?!
不審な人影とは、そう播州赤松氏の影である。そして、それらがやっぱり三木合戦・播州攻めあたりの時代背景で一点に繋がってくるのだ。
実際の稲田氏のルーツには不明な点が多いらしいが、赤松氏流大塚氏と同じように、「赤松系」を名乗っていたという。
そうである。稲田氏も、大塚氏と同じく「わけわからん赤松系」の一氏族なのである!
そして、恐ろしいことに、前回の情報の通り、「徳島系大塚氏に抱き茗荷紋の大塚さん」がいる、ということになると、これまた寛政譜の記載通り、
すわ「赤松氏流大塚氏」か?!
となってしまうことにお気づきだろうか!
・・・・・・いくらなんでも、出来すぎの感が否めないが、
①寛政譜の大塚氏は赤松氏流を名乗っている。抱き茗荷。
②久留米藩士伝承のある三潴の大塚さんは抱き茗荷。もちろん、久留米藩主は赤松そのもの。
③徳島藩家老稲田氏は自称赤松氏流で、徳島に抱き茗荷の大塚さんがいる。
これは、何の偶然か冗談か、マジでダヴィンチコードばりの家系ミステリーなのか、と思えてくるではないか!
==========
稲田氏だけではない、義兄弟であり、名実ともに2家で徳島・淡路を治めた「蜂須賀氏」とて同じである。
ウィキペディアより 蜂須賀正勝・家政
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E6%AD%A3%E5%8B%9D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%B6%E6%94%BF
徳島藩以前の蜂須賀氏は、尾張出身でありながら、秀吉の家来として、播磨攻めに参戦し
播磨龍野5万3千石や播磨佐用3千石
を領有した経緯がある。
とすれば稲田・蜂須賀両家に仕えた大塚氏が、いわゆる「赤松系」であっても全然不思議ではない。状況証拠だけは、限りなくクロなのだ。
==========
正直なところ、自分の家系を調査すればするほど、「赤松氏流大塚氏」なるものの正体がだんだんぼやけてきていて、歴史的にそういう一族は記録に残っておらず、他の家系の者が旧主君に仮託して名乗っている、と思うようになっていたのだが、今に至ってなんだかゾワゾワするのは気のせいか、おそらく風邪の引き始めかのどちらかだろう。
なんで、抱き茗荷の大塚さんの背後に赤松氏が見え隠れするのか。
さあ、みんなで一緒にハマりましょう!
なぜ、徳島の大塚さんの話が三潴の大塚さんと絡むのか、それは今回の記事を読み進めていけば、じわじわとわかってくる。
まず、前回のおさらいとして、徳島の大塚さんは主に淡路島を拠点とした「稲田氏」の家臣に存在し、稲田氏が徳島藩の領主「蜂須賀氏」の家老でもあった関係で、四国側にも大塚さんが存在することを思い出して欲しい。
では、それらの大塚氏が、どのような経緯で稲田・蜂須賀家の家臣となったのかという疑問については、「稲田家御家中筋目書」等に記載があるかないか現時点では確認できていない。
しかし、仮説段階として、どうもキナくさい感じがする。
そう、またまた不審な人影がちらついているのである。
まず、大塚氏を抱えていたことが確実な稲田氏の動向を探ってみよう。
(再掲)ウィキペディアより 稲田植元
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%94%B0%E6%A4%8D%E5%85%83
これまたおさらいがてらであるが
①稲田家は、村上源氏の系統で、播州赤松で浪人をしていた。
②のち尾張の織田家に仕え、このころ蜂須賀氏と密接になる。
③秀吉に仕えて、三木合戦等にも参加。
④はじめ播磨龍野をもらう話もあったが、いろいろあって阿波を蜂須賀・稲田で領有。
⑤多彩な家臣構成であり、元武田氏や加藤氏の家臣もいた。
などがわかっているという。
なんだか、とってもプンプンにおう感じ、わかってもらえるだろうか?!
不審な人影とは、そう播州赤松氏の影である。そして、それらがやっぱり三木合戦・播州攻めあたりの時代背景で一点に繋がってくるのだ。
実際の稲田氏のルーツには不明な点が多いらしいが、赤松氏流大塚氏と同じように、「赤松系」を名乗っていたという。
そうである。稲田氏も、大塚氏と同じく「わけわからん赤松系」の一氏族なのである!
そして、恐ろしいことに、前回の情報の通り、「徳島系大塚氏に抱き茗荷紋の大塚さん」がいる、ということになると、これまた寛政譜の記載通り、
すわ「赤松氏流大塚氏」か?!
となってしまうことにお気づきだろうか!
・・・・・・いくらなんでも、出来すぎの感が否めないが、
①寛政譜の大塚氏は赤松氏流を名乗っている。抱き茗荷。
②久留米藩士伝承のある三潴の大塚さんは抱き茗荷。もちろん、久留米藩主は赤松そのもの。
③徳島藩家老稲田氏は自称赤松氏流で、徳島に抱き茗荷の大塚さんがいる。
これは、何の偶然か冗談か、マジでダヴィンチコードばりの家系ミステリーなのか、と思えてくるではないか!
==========
稲田氏だけではない、義兄弟であり、名実ともに2家で徳島・淡路を治めた「蜂須賀氏」とて同じである。
ウィキペディアより 蜂須賀正勝・家政
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E6%AD%A3%E5%8B%9D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%B6%E6%94%BF
徳島藩以前の蜂須賀氏は、尾張出身でありながら、秀吉の家来として、播磨攻めに参戦し
播磨龍野5万3千石や播磨佐用3千石
を領有した経緯がある。
とすれば稲田・蜂須賀両家に仕えた大塚氏が、いわゆる「赤松系」であっても全然不思議ではない。状況証拠だけは、限りなくクロなのだ。
==========
正直なところ、自分の家系を調査すればするほど、「赤松氏流大塚氏」なるものの正体がだんだんぼやけてきていて、歴史的にそういう一族は記録に残っておらず、他の家系の者が旧主君に仮託して名乗っている、と思うようになっていたのだが、今に至ってなんだかゾワゾワするのは気のせいか、おそらく風邪の引き始めかのどちらかだろう。
なんで、抱き茗荷の大塚さんの背後に赤松氏が見え隠れするのか。
さあ、みんなで一緒にハマりましょう!
<調査中-徳島1>徳島県の大塚さん 概論
現代において「大塚史上最大のビッグネーム」といえば、誰もが知ってる「大塚製薬」さんで異存はないと思います。
ちなみに、私は徳島県にご縁があって、徳島県立男女共同参画センターの名前(愛称)をつけたのは
私
です。えへへ。
ちなみに、もう宇宙の塵となって消えてしまいましたが、JAXAの月探査人工衛星「かぐや」の名前をつけたのも
私
です。うへへ。
こちらの論文では、柳田国男が着目した徳島県板野郡土成町の「十三塚」の周辺をめぐって、この地に
「大塚姓」
の方がたくさんおられることと、恐らく当地の古墳に由来して「大塚姓」が発生した可能性が示されています。
ただ、当論文は史跡としての十三塚の研究がテーマであるため、姓と塚との関係については、それ以上の言及を避けています。
==========
近世における徳島と「大塚氏」の関係については、以前にも「北海道の大塚さん編」でご紹介した
快左衛門 さんのサイト(稲田騒動に関するページ)
http://kaizaemon.com/inada/inada.html
にいろいろ面白いことが紹介されています。
① 「阿波藩稲田家御家中と類親の系譜」(国見慶英編) より引用の藩士名簿に大塚氏の名前(けっこう多い)があります。
大塚氏の箇所
http://kaizaemon.com/inada/am/05.jpg
② 洲本(淡路島)の稲田家家臣にも、大塚氏の名前があります。順不同だそうです。
http://kaizaemon.com/inada/sm/sm.html
★徳島藩は、淡路島も治めていたので、淡路とも関連があります。
★「稲田家御家中筋目書」(猪井達雄編)という藩士の取り立て経緯などのわかる文書があるそうです。これを入手すれば、稲田家臣の大塚氏の系譜がわかるかもしれません。
さて、少し話は戻りますが、徳島藩という藩は、事前に知っておかなくてはいけない知識が必要な藩で、多少ややこしいですがお付き合いください。
まず、徳島藩を治めていたのは蜂須賀氏で、徳島藩は「徳島(阿波国)と淡路島(淡路国)」を領地としていました。
しかし、淡路の支配権を持っていたのは蜂須賀家家老の「稲田氏」であり、稲田氏は淡路島洲本を拠点として幕末まで続いています。
そして、面白いことに、稲田氏は、蜂須賀氏に遠慮して「家臣」を名乗ってはいるものの、実はかなり対等に近いような力関係を有していたと考えられているのです。
ウィキペディアより 稲田植元
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%94%B0%E6%A4%8D%E5%85%83
洲本市のサイトより 「稲田騒動」
http://www.city.sumoto.hyogo.jp/hp/shisei/simaitosi/kougo.html
従って、徳島・淡路に跨るこの地については「徳島藩」と簡単にまとめることもできますが、その実「蜂須賀家臣」と「稲田家臣」の2系統がある、と言えるわけです。
そのため快左衛門さんのサイトにあるように「稲田家の家臣」だけに着目することができるのです。
==========
さて、誰もが気になる大塚製薬さんのルーツについてですが、創業者の方のコメントがありましたので紹介しておきます。
大塚製薬そのものを創業なさったのは、大塚武三郎さんという方ですが、
ウィキペディアより 大塚武三郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E6%AD%A6%E4%B8%89%E9%83%8E
彼の息子さんが先祖についてのコメントを残しておられます。
大塚国際美術館 さんのサイトより
http://www.o-museum.or.jp/character/story.html
これによると、息子さんの正士さんからみて「祖先は曽祖父辺りまでは知っているけれど、その上はわからない」とのこと。
ご本人がそうおっしゃっておられるので、大塚製薬の詳細なルーツは探れないようです。
(この章つづく)
このブログの愛読者さんの大半が、子供の時の自己紹介で「大塚です」と名乗ると、「製薬?!」なんてツッコミが入ったり、あるいはそのまま大塚製薬さんがらみの「あだ名」をつけられた経験があるのではないでしょうか(笑)
大塚グループさんのホーロー看板は、それこそ日本の高度経済成長の生き証人として、今でも日本中のどこかに佇んでいます。
さて、そんな「大塚製薬」さんの創業者は、徳島県ご出身。今回は、徳島に着目します。
というのも、実は徳島県出身の大塚さんで「抱き茗荷」紋の大塚さんの情報を頂いたので、これはぜひ調べてみよう、と思い立ったわけです。
正直なところ、抱き茗荷紋かつ大塚氏で現在確認がとれているのは、
『寛政譜収録の幕臣大塚氏』
『三潴地方の我が大塚氏』
『今回情報を頂いた徳島系大塚氏』
の3氏だけですので、これらが相互に関係あるのやら、ないのやら興味津々な毎日です。
というわけでここでいつものCM
「家紋『抱き茗荷』な大塚さん!ご連絡待ってます!」
ちなみに、私は徳島県にご縁があって、徳島県立男女共同参画センターの名前(愛称)をつけたのは
私
です。えへへ。
ちなみに、もう宇宙の塵となって消えてしまいましたが、JAXAの月探査人工衛星「かぐや」の名前をつけたのも
私
です。うへへ。
==========
さて、徳島の大塚さんについてですが、もともと地域に根ざした地場の「大塚さん」がおられるのではないか、と考えられる指摘が見つかりました。
阿波学会研究紀要 さんのサイトから (郷土研究発表会紀要第36号)
http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/36/3617.html
阿波学会研究紀要 さんのサイトから (郷土研究発表会紀要第36号)
http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/36/3617.html
こちらの論文では、柳田国男が着目した徳島県板野郡土成町の「十三塚」の周辺をめぐって、この地に
「大塚姓」
の方がたくさんおられることと、恐らく当地の古墳に由来して「大塚姓」が発生した可能性が示されています。
ただ、当論文は史跡としての十三塚の研究がテーマであるため、姓と塚との関係については、それ以上の言及を避けています。
==========
近世における徳島と「大塚氏」の関係については、以前にも「北海道の大塚さん編」でご紹介した
快左衛門 さんのサイト(稲田騒動に関するページ)
http://kaizaemon.com/inada/inada.html
にいろいろ面白いことが紹介されています。
① 「阿波藩稲田家御家中と類親の系譜」(国見慶英編) より引用の藩士名簿に大塚氏の名前(けっこう多い)があります。
大塚氏の箇所
http://kaizaemon.com/inada/am/05.jpg
② 洲本(淡路島)の稲田家家臣にも、大塚氏の名前があります。順不同だそうです。
http://kaizaemon.com/inada/sm/sm.html
★徳島藩は、淡路島も治めていたので、淡路とも関連があります。
★「稲田家御家中筋目書」(猪井達雄編)という藩士の取り立て経緯などのわかる文書があるそうです。これを入手すれば、稲田家臣の大塚氏の系譜がわかるかもしれません。
さて、少し話は戻りますが、徳島藩という藩は、事前に知っておかなくてはいけない知識が必要な藩で、多少ややこしいですがお付き合いください。
まず、徳島藩を治めていたのは蜂須賀氏で、徳島藩は「徳島(阿波国)と淡路島(淡路国)」を領地としていました。
しかし、淡路の支配権を持っていたのは蜂須賀家家老の「稲田氏」であり、稲田氏は淡路島洲本を拠点として幕末まで続いています。
そして、面白いことに、稲田氏は、蜂須賀氏に遠慮して「家臣」を名乗ってはいるものの、実はかなり対等に近いような力関係を有していたと考えられているのです。
ウィキペディアより 稲田植元
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%94%B0%E6%A4%8D%E5%85%83
洲本市のサイトより 「稲田騒動」
http://www.city.sumoto.hyogo.jp/hp/shisei/simaitosi/kougo.html
従って、徳島・淡路に跨るこの地については「徳島藩」と簡単にまとめることもできますが、その実「蜂須賀家臣」と「稲田家臣」の2系統がある、と言えるわけです。
そのため快左衛門さんのサイトにあるように「稲田家の家臣」だけに着目することができるのです。
==========
さて、誰もが気になる大塚製薬さんのルーツについてですが、創業者の方のコメントがありましたので紹介しておきます。
大塚製薬そのものを創業なさったのは、大塚武三郎さんという方ですが、
ウィキペディアより 大塚武三郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E6%AD%A6%E4%B8%89%E9%83%8E
彼の息子さんが先祖についてのコメントを残しておられます。
大塚国際美術館 さんのサイトより
http://www.o-museum.or.jp/character/story.html
これによると、息子さんの正士さんからみて「祖先は曽祖父辺りまでは知っているけれど、その上はわからない」とのこと。
ご本人がそうおっしゃっておられるので、大塚製薬の詳細なルーツは探れないようです。
(この章つづく)
2014年3月15日土曜日
<おまけ>密室トリック?! 誰にも気付かれずに”消えた”あいつを追え!
いやあ、今回はなかなか「大塚不思議発見! この子誰の子あなたの子スペシャル」ですよ!
毎回、ルーツ探しはミステリーの連続なのですが、なんと明智小五郎も真っ青の密室トリックが起きてしまいました。
ただ「大塚さん」について調べているだけなのに、何があったんだ?!と驚かれることと思いますが、私にも思いもよらないあんなことやこんなことが起きてしまったのです!
・・・・・・はあはあ。まずは、ちょっと落ち着いて。気を取り直していきましょう。
今年1月12日の当ブログ記事
「あなたの大塚は”大塚”ですか?」
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_5376.html
でお伝えした通り、私の苗字「大塚」には「、」が間に入っている”大塚”なのです。
という訳で、もちろん戸籍も住民票も全部”大塚”になっているのが当然だと思っています。このことを私は、自分で勝手にそうしたわけではなく、父親から、
「うちの塚は旧字なので、本来は「てん」を入れて書かなくちゃならないんだよ」
と教わっていて、そして実際公文書もそうなっているので何の不思議も感じていなかったのです。
ここで、漠然とみなさんも思うことがあると思います。
「ああ、古い時代には旧字を使っていて、その名残で本来は”てん”の入った塚なんだなあ」
と。
よく似た事例に「斉藤さん」なんかもありますね。斉藤と略記しますが、実は「齋藤」とか「齊藤」とかだったりする例です。
ところが、現在大塚さんのルーツ探しで古文書にたくさん当たっていると、おかしな現象に出くわすのです。
それが「消えた?”あいつ”」もしくは「勝手に現れた?”あいつ”」こと、そうです。「”てん”」がとにかくミステリーなのです。
怪盗ルパンか、はたまた二十面相なのか、あるいはセイント・テールでもキャッツ・アイでもいいのですが、とにかく、
消えた「てん」を追え!
はじまりはじまり!
==========
まず、「寛政重修諸家譜」1520巻に記載の手書きの「大塚」について4家並べてみました。
その画像が、これ!(画像引用 国立国会図書館デジタルライブラリより 一部抜き出し加工)
当然ながら、これは江戸時代の書物です。筆跡の違いからわかる通り、それぞれ別人が書いています。
ところが、どうも全部「てん」がないのです。これがどういうことかというと、江戸時代の人にとって「塚」に「てん」が必要だということを、
全然意識していなかった
ということに他なりません。
これはある意味凄いことで、現代人の我々は「塚にてんが必要だと意識していない」し、江戸時代も「塚にてんが必要だと意識していない」のだとすれば、
いつどこの誰が「てん」がいるとか抜かしてけつかるんじゃい!
ということになるわけです(笑)
もうすこし事例を挙げましょう。
今度は、久留米市立図書館から取り寄せた系譜類です。(御家中略系譜・中小姓略系譜2種類・正徳諸士系譜)
これまた、揃いも揃ってどいつもこいつも「てん」がありません。これでやっぱり、江戸時代の久留米の人たちも塚にてんが必要だと
全く思ってない
ことがわかるわけです。
さらにひどいことに、わが家系の戸籍そのものを見てみると、
これまたまた、私の高祖父大塚喜平次の記載ですら、「てん」がついていないのです。
★この戸籍は、喜平次の長男のものであるため、当然長男についても
「てん」はついていない。たぶん筆跡から見て、この2つは同じ人が書いている。
ここまでくると、私の苗字に「てんがついている」と思っていたのが誤解かなんかじゃないかと思い始めてしまう次第です。
ところが、これが近代に近づくにつれてヤツは突然現れるのです。
===========
まず、これが現在の父の戸籍謄本(正式には除籍されている)と私の戸籍謄本です。
(画像は線が出やすいように加工しています。)
これらはコンピュータ上で表現された電子文字であり、そこからレーザープリンタで出力されたものが現在戸籍謄本として用いられています。
いずれも「てん」があります。
次は、父の改正原戸籍の画像です。
これは、現在は閉鎖されているものを画像の形で電子化し、それをレーザープリンタで出力するものですが、おそらく原本は金属活字で打たれていると思われます。
これにも「てん」があります。
さて、祖父の時代はどうでしょう。これは祖父の代のもので、金属活字で打たれていると考えられるものです。
少し見えにくいですが、「てん」があるように思われます。
ところが、おなじ祖父の戸籍であるのに、これの原戸籍となると、突然「てん」が消えるのです。
「てん」が完全に消えています。これも祖父の戸籍です。違いは手書きであることです。
ついでに、喜平次の長男についても手書きの戸籍(ただし、戸主を改めた際の新しいもの)が残っているのでそちらも見てみましょう。
ほら!やっぱり「てん」が消えています!
==========
これらのミステリーから、推測できることがあります。
それは、「活字になってはじめて、人は旧字を意識した」ということです。
手書きの際は、今の人も昔の人も
「てん」なんて気にしちゃいない
のではないか?!それがおそらく真実に近いと思います。
というわけで、うちの大塚にてんがあるべきなのか、ないべきなのかは実はよくわかりません(笑)
ただ、正式な字体を考慮すれば、
おそらく「てん」はあってよい
ということだと思うのですが、みなさんも一緒に探ってみてくださいね!
毎回、ルーツ探しはミステリーの連続なのですが、なんと明智小五郎も真っ青の密室トリックが起きてしまいました。
ただ「大塚さん」について調べているだけなのに、何があったんだ?!と驚かれることと思いますが、私にも思いもよらないあんなことやこんなことが起きてしまったのです!
・・・・・・はあはあ。まずは、ちょっと落ち着いて。気を取り直していきましょう。
今年1月12日の当ブログ記事
「あなたの大塚は”大塚”ですか?」
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_5376.html
でお伝えした通り、私の苗字「大塚」には「、」が間に入っている”大塚”なのです。
という訳で、もちろん戸籍も住民票も全部”大塚”になっているのが当然だと思っています。このことを私は、自分で勝手にそうしたわけではなく、父親から、
「うちの塚は旧字なので、本来は「てん」を入れて書かなくちゃならないんだよ」
と教わっていて、そして実際公文書もそうなっているので何の不思議も感じていなかったのです。
ここで、漠然とみなさんも思うことがあると思います。
「ああ、古い時代には旧字を使っていて、その名残で本来は”てん”の入った塚なんだなあ」
と。
よく似た事例に「斉藤さん」なんかもありますね。斉藤と略記しますが、実は「齋藤」とか「齊藤」とかだったりする例です。
ところが、現在大塚さんのルーツ探しで古文書にたくさん当たっていると、おかしな現象に出くわすのです。
それが「消えた?”あいつ”」もしくは「勝手に現れた?”あいつ”」こと、そうです。「”てん”」がとにかくミステリーなのです。
怪盗ルパンか、はたまた二十面相なのか、あるいはセイント・テールでもキャッツ・アイでもいいのですが、とにかく、
消えた「てん」を追え!
はじまりはじまり!
==========
まず、「寛政重修諸家譜」1520巻に記載の手書きの「大塚」について4家並べてみました。
その画像が、これ!(画像引用 国立国会図書館デジタルライブラリより 一部抜き出し加工)
当然ながら、これは江戸時代の書物です。筆跡の違いからわかる通り、それぞれ別人が書いています。
ところが、どうも全部「てん」がないのです。これがどういうことかというと、江戸時代の人にとって「塚」に「てん」が必要だということを、
全然意識していなかった
ということに他なりません。
これはある意味凄いことで、現代人の我々は「塚にてんが必要だと意識していない」し、江戸時代も「塚にてんが必要だと意識していない」のだとすれば、
いつどこの誰が「てん」がいるとか抜かしてけつかるんじゃい!
ということになるわけです(笑)
もうすこし事例を挙げましょう。
今度は、久留米市立図書館から取り寄せた系譜類です。(御家中略系譜・中小姓略系譜2種類・正徳諸士系譜)
これまた、揃いも揃ってどいつもこいつも「てん」がありません。これでやっぱり、江戸時代の久留米の人たちも塚にてんが必要だと
全く思ってない
ことがわかるわけです。
さらにひどいことに、わが家系の戸籍そのものを見てみると、
これまたまた、私の高祖父大塚喜平次の記載ですら、「てん」がついていないのです。
★この戸籍は、喜平次の長男のものであるため、当然長男についても
「てん」はついていない。たぶん筆跡から見て、この2つは同じ人が書いている。
ここまでくると、私の苗字に「てんがついている」と思っていたのが誤解かなんかじゃないかと思い始めてしまう次第です。
ところが、これが近代に近づくにつれてヤツは突然現れるのです。
===========
まず、これが現在の父の戸籍謄本(正式には除籍されている)と私の戸籍謄本です。
(画像は線が出やすいように加工しています。)
これらはコンピュータ上で表現された電子文字であり、そこからレーザープリンタで出力されたものが現在戸籍謄本として用いられています。
いずれも「てん」があります。
次は、父の改正原戸籍の画像です。
これは、現在は閉鎖されているものを画像の形で電子化し、それをレーザープリンタで出力するものですが、おそらく原本は金属活字で打たれていると思われます。
これにも「てん」があります。
さて、祖父の時代はどうでしょう。これは祖父の代のもので、金属活字で打たれていると考えられるものです。
少し見えにくいですが、「てん」があるように思われます。
ところが、おなじ祖父の戸籍であるのに、これの原戸籍となると、突然「てん」が消えるのです。
「てん」が完全に消えています。これも祖父の戸籍です。違いは手書きであることです。
ついでに、喜平次の長男についても手書きの戸籍(ただし、戸主を改めた際の新しいもの)が残っているのでそちらも見てみましょう。
ほら!やっぱり「てん」が消えています!
==========
これらのミステリーから、推測できることがあります。
それは、「活字になってはじめて、人は旧字を意識した」ということです。
手書きの際は、今の人も昔の人も
「てん」なんて気にしちゃいない
のではないか?!それがおそらく真実に近いと思います。
というわけで、うちの大塚にてんがあるべきなのか、ないべきなのかは実はよくわかりません(笑)
ただ、正式な字体を考慮すれば、
おそらく「てん」はあってよい
ということだと思うのですが、みなさんも一緒に探ってみてくださいね!
登録:
投稿 (Atom)









