膠着状態が続いており、新しいデータが集まってこない今日この頃。
それでも、新しい切り口や、新しい視点はないか?と多角的に考察を深めている大塚某だが、ちょっと気になる事実を発見した。
ここに来て、面白い人物の存在に気付いたのである。
その名は「大塚佐渡」。マルキド・サドではない。オオツカ・サドである。
ちなみに、マルキド・サドは史上最強の変態である。かっこわらい。
もとい。大塚佐渡は、本来の表記で言えば「大塚佐渡守」という名称こそ正しいと思われる戦国時代の武将である。
現在、資料取り寄せ中なので、詳しいことは手元に古書が来てから解説したいのだが、現時点でわかっていることは、
①水ヶ江龍造寺家の家臣に、大塚なんとかという者がおり、その先祖が「大塚佐渡」らしい。
②大塚佐渡の親分は「天理様」だそうである。
ということに過ぎない。
しかし、我らが「大塚隠岐」に対して、「大塚佐渡」がいた、となるとその気なんの気、気になる気である。
それはもう、大塚サドと大塚マゾがいたくらいの、怪しさ満点だとは思わないか?・・・・・・え?思わないって?
サドネタはいいかげんにしつこいので、これくらいにしておくが、もう少し調査をすすめておこう。
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「大塚佐渡」の名前が登場するのは、次の2つの資料である。
■ 「水江臣記」 (九州史料落穂集 第五冊)
■ 「丹邱邑誌」
水江臣記のほうは、簡単にいえば「水ヶ江龍造寺氏、つまり後多久氏」の家臣録ということになる。
ちなみに、この氏族のことをキムタクに対して「アトタク」と呼ぼう!
これまたちなみに、龍造寺の後を鍋島が継ごうとするのだが、のちのち龍造寺の系統のにいちゃんが
「いや、俺のほうが鍋島より本家スジだし」
と言い出したときに、
「ちょ、ちょっと待てよ!それなら俺のほうがマジ龍造寺だし」
と鍋島の肩を持ったので、ゴタゴタが丸くおさまったという、要は鍋島家にとってのHEROなのである。
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キムタクのせいで話がややこしくなったので、話を戻そう。
くまモン龍造寺隆信のいちばん末の弟がおり、彼の名を龍造寺長信という。この人物の別名が天理様なので、ようするに、大塚佐賀は龍造寺長信の家臣だったということになる。
で、この長信の長男が、多久安順なので、お父さんの時代は龍造寺を名乗っていて、息子のアトタクが、多久氏を名乗りはじめた、ということになるわけである。
水江臣記・丹邱邑誌を参考にすると(まだ読み込んでないので簡易検索ね)
「大塚佐渡と子の大塚大塚弥八左エ門は、天理様が多久へ入城する際に従って多久入りしており、その子孫に大塚伝右衛門がいる」
ということが書いてあるらしい。
天理様の存命期間は「天文7年(1538年) - 慶長18年10月26日(1613年12月7日)」とされている。
この時代に、大塚佐渡が生きていたとすれば、土生島城から神代長良が脱出したのが永禄8年(1565)なので、同世代の人物とすることができる。
つまり、大塚佐渡と大塚隠岐は、同時代に生きていて、どちらも龍造寺の家臣だった可能性が高い。
もっと精査するとこうなる。
■永禄8年(1565) 大塚隠岐守 神代長良を脱出させる。
■元亀2年(1571) 以降、神代長良は龍造寺家臣となる。
□天正年間(1573~1593) 隠岐が現在の当家の村にやってくる。
□天正9年(1581) 神代長良 死去(45歳)
□天正12年(1584) 龍造寺隆信 死去(55歳)
■天文7年(1538年) - 慶長18年(1613年) 天理様:龍造寺長信の存命期間
□大塚佐渡は上記期間に準じて存在する。
ね?大塚隠岐とうちの村の隠岐は同一人物の可能性があるし、大塚隠岐と大塚佐渡も同時代の人物の可能性があるでしょ?
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で、何が言いたいかといえば、大塚隠岐と大塚佐渡が、おなじ系列の大塚氏だという可能性だってあるわけで。隠岐と佐渡をそれぞれ「武将名としてもらっている」あたりが気になるわけである。
(この節つづく)
大塚伝右衛門・・・
返信削除うちのお墓に彫ってある名前と一緒なんですが、偶然でしょうね。(^^;
どう考えてもせいぜい幕末くらいだと思うんで。元号も彫ってあるんですが失念。
長崎で廻船問屋をやっていたらしいですが・・・。
コメントありがとうございます。記事中の大塚伝右衛門は、佐賀の多久に拠点を置いた佐賀藩の分流の家臣なので、おそらく時代が異なると思います。
返信削除ただ、長崎地方の大塚氏の情報が少ないので、御家のお話もとても気になります。
ぜひ情報をお寄せ下さいませ!