2015年4月6日月曜日

竹中半兵衛の墓前に参ってきました。

 2015年春になっても、まだまだ覚めやらぬ軍師官兵衛ちゃんブームですが、はて「枚方パーク」へ参列しようか、悩んでいる今日この頃でございます(笑)


 それはさておき、先日はふと思い立って、



 竹中半兵衛重治殿の墓前



に参ってまいりました。


 思いつきで、戦国の軍師どののお墓に参ることができるのも、関西在住の喜びです。ふだんの仕事で車もけっこう乗っているものですから、岡山から滋賀くらいの間だったら、ひょこっと行って帰ってきます(^^



 さて、竹中半兵衛どのは、言わずとしれたハンサムで、プロミスな男です(←そこは違う。)谷原章介さん、おとこまえです。



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< 竹中半兵衛の墓 三木市平井 >


 ちょうど別所長治の三木城に相対する向かいの山のふもとにあります。



 墓碑。ウィキペディアに

”今でも地元老人会などで手厚く供養されており、墓には献花が途切れることがない”

なんて紹介されているのですが、本当にそのとおりで、綺麗なお花と供物が供えられていました!

きちんと管理されている様子が伺えます。


 いちおうセミプロとして、墓碑を調査してきましたが、おそらく現代に近い時代のものでしょうね。石の古さから江戸時代末期~明治ごろかな~。年号等ははいっていません。

 誰か知っている人がいたら解説よろしく。


サイドの小さい献灯祠は昭和に入ってからのもの。戦後のものです。

 写真に写っていませんが、手前に灯篭が2塔立っていますが、「文化文政」時代のものでした。

(チェックしたけど、文化だったか文政だったか忘れた!)




 さて、この竹中半兵衛の墓。原始的な「武将の伝承」を良く伝えている形式になっています。


 どういうことか?!



 そもそも、戦国時代の墓碑は、現在とはまった異なったスタイルで、だいたい表に「竹中半兵衛の墓」なんて書いてありません。

 私たちの知っている形式は、もっと後のもので、戦国時代の墓は石だけとか、せめて塔の形になっているとかです。


 では、竹中半兵衛の墓はどうなっていたのかという裏話ですが、全体像を写真で取ると


 小さな人工の塚(立派な木がその上に生えています)


になっていることがわかると思います。これが逆にリアルですね!


 たぶん、伝承として


「あそこの畑の中の塚は、昔に竹中さまが陣中で亡くなって供養されたお墓なのじゃ」


という話が数百年も伝達されていて、のちに周りを囲ったり、墓石を立てたりと徐々に整備されたもの、というわけです。



 実は、今回は行きませんでしたが、三木攻めの秀吉本陣は、ここからたった数百mしか離れていません。


 なぜ行かなかったか?

 うちのちびたちと一緒におまいりしたので、今回はパスしました(笑)


 もちろん、平和な時代になってから「改葬」されて寺に墓があったりもするんですが、竹中半兵衛の場合は、やはり陣の中にそのまま葬られている感があり、戦国の息吹を感じることができます。



 ちなみに、完全に余談ですが、狂言の和泉元彌さんのおかあさま(セッチー)は、竹中半兵衛ちゃんの子孫だそうです。




 




1 件のコメント:

  1. こんにちは~御無沙汰です^^
    いつも読み逃げですいません^^

    ちょっと紹介したい方がいるのでメールしますので宜しくお願いします

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